ハルベルグ・ラッシーは、一度も組まなかった二人の名前でできている

セーリング

スウェーデンのオルスト島で、1943 年の木の船から 2024 年の旗艦まで

ハルベルグ・ラッシーは、遠くまで行くためのセーリングヨットとして知られるスウェーデンの造船所です。名前は二人の人の名字をつないだものですが、公式の社史は、二人が共同で働いたことは一度も無いと書いています。では、なぜ二つの名前が並んでいるのか。造船所が自分で公開している社史を読むと、その事情と、いまの船の形がいつ決まったのかが分かります。

CHAPTER 1二つの造船所と、一つの小屋

1-1 ハリー・ハルベルグ、14 歳で船を造り始める

公式の社史は、いまのハルベルグ・ラッシーが、もとは二つの造船所だったと書いています。

一人目はハリー・ハルベルグです。1914 年に生まれ、1997 年に亡くなりました。14 歳のときに、木の船を造る仕事を始めています。1943 年、スウェーデンのオルスト島のクングスヴィーケンに、自分の造船所を開きました。社史が会社の始まりとしているのは、この年です。

最初のころ、彼は木の船をほとんど勘で造っていたそうです。客と話し合って、どうするかを決めていく。図面はほとんどありませんでした。社史には、当時の言い回しが残っています。図面が無いと船を造れない者は、本物の船大工とは呼べない、というものです。

続けて何隻も造った最初の船は、フォークボートでした。けれど社史が、彼のいちばんの功績として挙げているのは別のことです。ガラス繊維で強くした樹脂(GRP)の良さを理解して、同じ船を続けて造ったことでした。1963 年、彼は GRP でセーリングボートを続けて造る先駆けの一人になります。船体は GRP、上の構造は木、という組み合わせです。その「P-28」は早くから輸出でも成功し、最初の 100 隻のほとんどがアメリカへ売られました。

1-2 クリストフ・ラッシー、自転車一台でスウェーデンへ

二人目はクリストフ・ラッシーです。1934 年に生まれ、2021 年に亡くなりました。育ったのはドイツ南部のバイエルンで、シュタルンベルク湖のそばです。若いころから、空いた時間に船の模型と本物の船を造っていました。もっと学びたくて、ドイツ南部の、木の船の小さな造船所で見習いになります。

やがて彼は、もっと大きくて立派な船を造り、海のそばで暮らしたいと考えました。水の多い大きな国スウェーデンなら、大きくて立派な船を造っているに違いない。そう考えて、スウェーデンの造船所にいくつも手紙を書き、仕事を求めます。一つの造船所が、歓迎すると返事をくれました。

1960 年、クリストフは何も持たずに、スウェーデンのネーテスンドへ移ります。社史によれば、持ち物は自転車一台だけでした。昼は雇われた造船所で船を造り、空いた時間には自分のための船を造りました。その船でレースに出て勝ち、利益を付けて売った、と書かれています。手元のお金を増やすためでした。

1-3 1972 年、名前が一つになる

独立したいと考えたクリストフに、巡り合わせが来ます。1960 年代の半ば、ハルベルグのクングスヴィーケンの造船所が手狭になりました。ハルベルグは、同じオルスト島の、南西へ 10 キロメートルのエレースに新しい建物を建てます。クリストフは自分の事業を始めるときに、空いたクングスヴィーケンの古い造船所を買いました。同じ小屋から、二人それぞれの仕事が始まったわけです。

1965 年から 1972 年まで、二人は競争相手でした。クリストフが最初に続けて造った船は、1966 年にオーレ・エンデルラインが設計した「ラスムス 35」です。最初の二隻はすべてマホガニーで造られ、一隻に一年かかりました。当時、35 フィートはとても大きな船だと見られていました。そのうえ、風よけの窓が付いたセーリングボートは、それまで誰も見たことのない組み合わせでした。

1972 年、ハルベルグが引退します。ちょうど広い場所を探していたラッシーの造船所が、エレースのハルベルグの造船所を買いました。ハルベルグの名前は四つの設計でよく知られていて、ラッシーの側にはラスムスしかありませんでした。それで、新しい会社の名前はハルベルグ・ラッシーになります。社史はここで念を押しています。二人が共同の経営者だったことは一度も無い、と。

TIMELINE二つの造船所が一つになるまで(公式の社史から)
  1. 1943ハリー・ハルベルグがクングスヴィーケンに造船所を開く
  2. 1960クリストフ・ラッシーがスウェーデンへ移る
  3. 1963ハルベルグが GRP の船を続けて造り始める
  4. 1966ラスムス 35 が設計される
  5. 1972ラッシーの造船所がハルベルグの造船所を買う

CHAPTER 2いまの形は、ラスムスと 41 で決まった

2-1 真ん中の操縦席と、風よけの窓

ラスムス 35 について、社史はこう書いています。力のあるエンジンを積み、船の真ん中に操縦席を置き、それを風よけの窓で守った、遠くへ行くための船の先駆けだった。この設計は、今日までハルベルグ・ラッシーの船に残っている、と。発表されたときは、多くの人が眉を上げたそうです。それがいまでは、良い巡航艇なら当たり前のものになりました。

社史には、1972 年のある客の話が載っています。その客は、ハルベルグの「ミストラル 33」と、ラッシーの「ラスムス 35」のどちらを買うかで迷っていました。ミストラルは操縦席が後ろに、ラスムスは真ん中にあります。ハルベルグの売り手は、後ろに操縦席があれば、後ろの船室に水しぶきが入る心配が無い、と勧めました。客はそのあとラッシーの造船所へ行き、同じことを尋ねます。結局、注文されたのはラスムスでした。社史は、その船がいまも同じ持ち主のもとにあると書き、一言付け加えています。ところで、後ろの船室に水しぶきは入りません、と。

2-2 いちばん多く造られた「モンスーン 31」

ハルベルグ・ラッシーの名前で出た最初の新しい設計は「モンスーン 31」です。1973 年に設計され、1974 年に進水しました。1982 年までに 904 隻が造られています。社史によれば、これはハルベルグ・ラッシーのどの船よりも多い数です。

この船には、有名な一隻があります。スウェーデンの船乗りクルト・ビョルクルンドが 1974 年にエレースで受け取った「ゴールデン・レディ」です。彼は 1983 年に仕事を引退して、一人での世界一周に出ました。二度目の航海では、ホーン岬を回っています。この船は世界を三周半したあと、1996 年に、スウェーデン南部のローの海の博物館に入りました。持ち主が寄贈したのです。売ることもできたけれど、船がどこにいてどうしているか分からなくなるのは耐えられない。お金をあきらめて、心の平安を取る。社史は、彼のそういう言葉を伝えています。

FIGURE社史に隻数が書かれている船
モンスーン 31904
312690
34484
382120
5382
4571
6225

2-3 船室を通り抜けられる「41」と、青い線

次の設計「ハルベルグ・ラッシー 41」は、甲板の下で後ろの船室まで歩いて通り抜けられる、最初の船でした。船首から船尾まで、一つの高さでつながっています。調理場は階段の右舷側に置かれ、人の通り道から外れています。海図の机は反対側で、船の進む向きに座る本物の椅子が付きました。社史は、この配置の考え方が、改良を重ねながら今日まで使われていると書いています。

装備も、当時としては目を引くものでした。加圧された水、お湯、シャワー、電動の錨の巻き上げ機、前の帆を巻き取る仕組み、二つの手洗い。この 41 は、1975 年から 1979 年までの短く濃い期間に 100 隻を超えて造られました。

続く「38」は 1976 年から 1977 年にかけて設計され、船体をぐるりと回る青い線が付いた最初の船になりました。いまもこの造船所の船を見分ける目印です。35 フィートの船で船室の通り抜けと美しい線を初めて両立させたという「352」は、1989 年までに 800 隻を超えて造られました。1979 年の「312」は 1993 年までに 690 隻が造られ、1982 年に出た「49」は船体が 15 メートルあって、社史はこれをスウェーデンの船の産業の堂々とした旗艦と呼んでいます。

CHAPTER 3息子の実験と、フレースの線

3-1 16 歳のマグヌスが造った「ラスカー」

1983 年、16 歳のマグヌス・ラッシーが、実験のための船を自分で設計して造りました。名前は「ラスカー」です。船体には、アラミド繊維などの新しい材料が使われました。外付けの鉛のキールと、船尾の水浴び用の台を持つ船は、ハルベルグ・ラッシーではこれが最初です。船体の長さは 26 フィートで、多くのレースに勝ったと書かれています。

1987 年には、マグヌスが設計した二隻目、35 フィートの「ラスカー・マグナム」が造られました。社史は、この二隻を売り物にするつもりは無かったけれど、先々のための良い準備になった、と書いています。何を取り入れるべきかだけでなく、何を取り入れるべきでないかも分かったからです。たとえば、深い船底の水だまりと、扱いやすい帆の仕組みが大事だということが、はっきりしました。

同じ 1987 年に、造船所は二つの投資をしています。一つは、コンピューターで動かす最初の木工の機械です。部材を、それまでに無い正確さで切れるようになりました。もう一つは、長く GRP の船体の下請けをしてきた工場を買ったことです。これで、木の仕事も GRP の仕事も、造る工程のすべてを自分のところで持つようになりました。

3-2 1988 年、ヘルマン・フレースと組む

1988 年、ハルベルグ・ラッシーは、アルゼンチンの設計者ヘルマン・フレースと組み始めました。社史は彼を、いまの時代でいちばん才能のあるヨットの設計者と呼んでいます。

最初の一隻が「45」です。外付けの鉛のキールを、続けて造る船に初めて取り入れました。床とキールの間に、縦と横の頑丈な補強も入れています。船体には、断熱になる発泡材の芯を入れました。暑さと寒さを防ぐだけでなく、船体をさらに強くする、と社史は説明しています。この 45 は、大西洋を渡るレース ARC で総合の一位を取りました。1988 年から 1996 年までに 71 隻が造られています。

1990 年には「34」が出ます。ラスカー・マグナムが 1990 年の春に売れたあと、その良い所を取り入れた新しい船を造ると、すぐに決まりました。前の船よりずっとよく走り、見た目は若いのに古典的でもある船。フレースにそう頼んで、その年の夏に最初の 34 が走りました。34 は 2005 年までの十六年間に 484 隻が造られ、新しい世代の先駆けになったと書かれています。

社史によれば、フレースはこれまでにハルベルグ・ラッシーのために 25 の設計をしました。造船所が届けた 9 750 隻のうち、3 850 隻がフレースの設計です。

3-3 大きくなっていく旗艦

フレースと組んでから、旗艦は少しずつ大きくなっていきます。1992 年に「53」が出て、2006 年までの十五年間に 82 隻が造られました。「62」は 1998 年 1 月にデュッセルドルフのボートショーで初めて披露され、2011 年までに 25 隻が造られています。

2011 年には「64」がデュッセルドルフで披露されました。社史によれば、世界でいちばん大きなボートショーで、いちばん大きなセーリングボートでした。家族だけで動かせる世界周航の船だ、と説明されています。そして 2024 年の新しい旗艦が「69」です。社史はこれを、これまでで最も大きいハルベルグ・ラッシーと呼び、それでも帆の扱いと港での取り回しは家族でできる、と書いています。

造船所の側も変わりました。2002 年には、「43」の注文に追いつくために作業場をもう一つ建てています。2007 年には、船体を積層する新しい作業場ができました。古い作業場は、いちばん大きくても 35 フィートの船を想定して建てたものだったからです。2008 年には、一部が水の上に張り出した新しい本社を、港に開きました。

TABLEフレースと組んでからの旗艦(公式の社史から)
船 出た年 造られた数
45 1988 71
53 1992 82
62 1998 25
64 2011 社史に数の記載なし
69 2024 社史に数の記載なし

SOURCES出典

  1. Hallberg-Rassy 公式サイト「Company history」
    https://www.hallberg-rassy.com/company/company-history(2026-10-02 確認)

この記事は、上の資料の原文を確かめたうえで書いています。年や長さなどの数は、資料に書かれているものだけを使いました。資料どうしで書き方が違う所は、本文でそのように断っています。記事の中の社名と艇名は、各社の商標です。

WRITTEN BY山岸 勇輝Yuuki YAMAGISHI

独立研究者(Independent Researcher)。公式の資料や統計など、一次の資料にあたって書くことを続けている。船が好きで、とくにアルベマーレに思い入れがある。