要旨
「炭素 $12$ を $12$ g 集めたものが $1$ モル」は、長らく定義だった。$2019$ 年の SI 改定で、それが定義でなくなった。本稿が問うのは、等号の身分がどう変わったかである。答は、定義から経験則へ移ったである。新しい数学定理も新しい法則も主張しない。
第一に、定義の向きが入れ替わった。以前は質量が個数を決め、いまは個数が質量を決める(第2節)。
第二に、これが本稿の芯である。$M(^{12}\mathrm{C})=\mathbf{11.9999999958}$ g/mol であり、もう $12$ ちょうどではない(第3節)。
第三に、ただし差はまだ有意ではない。差 $4.2\times10^{-9}$ g/mol は不確かさ $3.6\times10^{-9}$ の$\mathbf{1.17}$ 倍にすぎない(第3節)。
第四に、だから「ずれた」ではなく「ずれうるようになった」である。変わったのは値ではなく、等号の身分である(第4節)。
第五に、同じことが四つの単位で起きた。キログラム・アンペア・ケルビン・モル、水の三重点ももう $273.16$ K ちょうどではない(第5節)。
第六に、分離子は「どちらを固定したか」である。固定した側が定義になり、残った側が測定になる(第6節)。
射程(何を示さないか)
新しい数学定理も新しい法則も主張しない。$2019$ 年の SI 改定、アボガドロ定数の定義値、$M(^{12}\mathrm{C})$ の CODATA 値、モル質量定数は、いずれも標準的である。計量学を作らない。使うのは一つの引き算と、一つの割り算だけである。改定の当否を論じない。なぜこの改定が行われたか、どの定義が良いかは扱わない。等号の身分がどう動いたかだけを見る。実験の詳細に立ち入らない。シリコン球によるアボガドロ定数の決定も、ワットバランスも一切扱わない。$12$ からのずれを主張しない。差 $4.2\times10^{-9}$ は不確かさの $1.17$ 倍であり、$12$ と有意に違うとは言えない。本稿は「もう $12$ ではない」と主張するのではなく、「$12$ である保証がなくなった」と述べる。CODATA 値の更新に追随しない。$11.9999999958(36)$ はある時点の推奨値であり、改訂されうる。数値ではなく構造が本稿の主張である。実務への影響を誇張しない。相対 $3.5\times10^{-10}$ は分析化学の日常(相対 $10^{-4}$)では見えない。見えるのは質量標準の世界だけである。既刊との関係:論文16 は「等号にも別根がある」ことを示した。本稿は一つの等号が、歴史の中で根を乗り換えた実例である。定義の等号から経験則の等号へ、$2019$ 年に移った。論文95 は規約と事実を分け、$c$ の定義値を扱った。本稿の $N_A$ は$c$ と同じ型の「定義された定数」であり、足場の側に移った。論文268 は三重点が「点」であることが実験事実でないと示した。本稿はその三重点の温度もまた、同じ改定で定義でなくなったことを並べる。論文196 は「圧力」が四つの別の量だと示した。本稿は一つの量の等号が二つの身分を持ちうることを扱う。加えたのは$M(^{12}\mathrm{C})$ の $12$ からの差を $4.2\times10^{-9}$ g/mol と計算したこと、それが不確かさの $1.17$ 倍にすぎないと確かめたこと、四つの単位で同じ乗り換えが起きたと並べたこと、分離子を「どちらを固定したか」に置いたことである。
1. 記法と問い
$2019$ 年 $5$月 $20$ 日、SI の基本単位の定義が改められた。モルについては次のように変わった。
| 時期 | 定義 | 向き |
|---|---|---|
| $2019$ 年より前 | 炭素 $12$ を $\mathbf{12}$ g 集めたものが $1$ mol | 質量が個数を決める |
| $2019$ 年以降 | $N_A=6.02214076\times10^{23}$ /mol ちょうど | 個数が質量を決める |
問い:$M(^{12}\mathrm{C})=12$ g/mol という等式は、どうなったか。
観察 1.1 改定前、この等式は定義だった。測る必要も、誤差もない。そう決めたからそうである。
観察 1.2 論文16 は「等号にも別根がある」ことを示した。定義の等号、恒等式の等号、経験則の等号は同じ記号で書かれるが身分が違う。本稿は一つの等号が根を乗り換えた実例である。
2. 定義の向きが入れ替わった
観察 2.1 改定前の連鎖はこうだった。
| 炭素 $12$ を $12$ g 量る(質量が出発点) |
|---|
| $\downarrow$ そこに含まれる原子の個数が $1$ mol |
| $\downarrow$ その個数を測って $N_A$ を得る(誤差がある) |
観察 2.2 改定後の連鎖はこうである。
| $N_A=6.02214076\times10^{23}$ と決める(個数が出発点・誤差なし) |
|---|
| $\downarrow$ その個数の炭素 $12$ を集める |
| $\downarrow$ その質量を測って $M(^{12}\mathrm{C})$ を得る(誤差がある) |
観察 2.3 誤差の置き場所が入れ替わっている。以前は $N_A$ に誤差があり $M(^{12}\mathrm{C})$ は厳密だった。いまは $N_A$ が厳密で$M(^{12}\mathrm{C})$ に誤差がある。
観察 2.4 どちらの体系でも、物理的な事実は一つも変わっていない。炭素原子の重さも、一グラムの重さも同じである。変わったのは、どれを規約として固定するかという選び方だけである(論文95)。
3. 芯:$M(^{12}\mathrm{C})$ は $11.9999999958$ g/mol である
検算 3.1:
| 量 | 値 |
|---|---|
| $N_A$(定義値) | $6.02214076\times10^{23}$ /mol ちょうど |
| $M(^{12}\mathrm{C})$(測定値) | $\mathbf{11.9999999958}$ g/mol |
| その不確かさ | $\pm3.6\times10^{-9}$ g/mol |
| $12$ との差 | $\mathbf{4.2\times10^{-9}}$ g/mol |
| 相対では | $\mathbf{3.5\times10^{-10}}$ |
観察 3.2 これが本稿の芯である。$M(^{12}\mathrm{C})$ はもう $12$ ちょうどではない。$12$ という数は、いまや測定の対象である。
検算 3.3:ただし、差は有意か。
| 量 | 値 |
|---|---|
| 差 $/$ 不確かさ | $\mathbf{1.1667}$ |
観察 3.4 差は不確かさの $\mathbf{1.17}$ 倍にすぎない。$12$ と有意に違うとは言えない。現在の測定は、$12$ ちょうどであることとも矛盾しない。
観察 3.5 これが正確な言い方である。「$12$ からずれた」のではなく、「$12$ である保証がなくなった」。ずれているかどうかは今後の測定が決める。以前はその問いが立てられなかった。
検算 3.6:モル質量定数 $M_u=M(^{12}\mathrm{C})/12$ を見る。
| 量 | 値 |
|---|---|
| $M_u$ | $9.999999996500\times10^{-4}$ kg/mol |
| $10^{-3}$ kg/mol との相対差 | $3.5\times10^{-10}$ |
観察 3.7 「原子量 $\times$ g/mol でモル質量が出る」という日常の規則は、$M_u=1$ g/mol ちょうどを暗に使っている。それが$3.5\times10^{-10}$ だけ厳密でなくなった。ただし、この桁が見える現場はほとんどない。
4. 「ずれた」ではなく「ずれうるようになった」
検算 4.1:この差がどこで効くかを見る。
| 現場 | 相対精度 | $3.5\times10^{-10}$ は |
|---|---|---|
| 分析化学の日常 | $10^{-4}$ | 見えない |
| 高精度質量分析 | $10^{-6}$ | 見えない |
| 質量標準・原子時計 | $10^{-9}$ | ようやく見える |
観察 4.2 実務では何も変わらない。改定前と同じ計算をして、同じ答が出る。変わったのは値ではなく、等号の身分である。
観察 4.3 だからこの改定は測定結果ではなく、論理の側の出来事である。新しい実験が $12$ を否定したのではない。$12$ という数を、否定されうる場所に移したのである。
観察 4.4 論文16 の言い方をすれば、等号が根を乗り換えた。
| $2019$ 年より前 | $2019$ 年以降 | |
|---|---|---|
| $M(^{12}\mathrm{C})=12$ g/mol | 定義の等号 | 経験則の等号($1.17\sigma$) |
| $N_A=6.02214076\times10^{23}$ | 経験則の等号 | 定義の等号 |
観察 4.5 二行がちょうど入れ替わっている。定義と測定の総数は変わらない。どちらを固定するかを選び直しただけである。
5. 同じことが、四つの単位で起きた
検算 5.1:
| 単位 | 旧定義 | 新定義(固定した定数) |
|---|---|---|
| キログラム | 国際キログラム原器 | $h=6.62607015\times10^{-34}$ J s |
| アンペア | 二本の導線に働く力 | $e=1.602176634\times10^{-19}$ C |
| ケルビン | 水の三重点 $273.16$ K ちょうど | $k=1.380649\times10^{-23}$ J/K |
| モル | 炭素 $12$ を $12$ g | $N_A=6.02214076\times10^{23}$ /mol |
観察 5.2 右の列がすべて「ちょうど」である。左の列は物体や現象であり、右の列は数である。規約は数であって、物ではない。
検算 5.3:ケルビンの行も、モルと同じ入れ替わりを起こした。
| 水の三重点の温度 | |
|---|---|
| $2019$ 年より前 | $273.16$ K ちょうど(定義) |
| $2019$ 年以降 | $273.1600$ K $\pm 0.0001$ K(測定値) |
観察 5.4 論文268 は、三重点が「点」であること自体が実験事実でないと示した。ここではさらに、その点の温度も、もう定義ではない。同じ一つの三重点について、二つの別々の理由で「事実ではない」ことが重なっている。
観察 5.5 四つの単位で、定義だった等式が測定値になった。そして四つとも、差は現在の不確かさの内側にある。改定は連続的に行われたのであって、数が飛んだのではない。
6. 分離子:どちらを固定したか
観察 6.1 分離子、何を動かすと、等号の身分が変わるか。どちらを規約として固定したかである。
| 固定した側 | 残った側 | |
|---|---|---|
| 身分 | 定義(誤差なし) | 測定(誤差あり) |
| 問える問い | なし | 「本当にその値か」 |
観察 6.2 定義された側について「本当にそうか」と問うことはできない。規約だからである。問いが立てられるかどうかが、身分の違いの実体である。
観察 6.3 論文95 は $c$ の定義値を扱った。$1983$ 年以降、光速は測定の対象ではない。メートルのほうが $c$ から定義されるからである。$N_A$ は $2019$ 年に、$c$ と同じ側へ移った。
観察 6.4 したがって「アボガドロ定数を精密に測る」という研究は、$2019$ 年に終わった。同じ実験装置はいまも動いているが、測っている対象の名前が変わった。いまはキログラムを実現している。
観察 6.5 正直に書くべき点、本稿はどちらの定義が良いかを論じない。示したのは等号の身分が動いたという構造であって、改定の当否ではない。ただし、身分が動いたことに気づかないまま「$12$ ちょうど」と書くのは、もう正確ではない。
7. 点呼と結び
- 向きが入れ替わった(観察2.1–2.2):質量が個数を決める $\to$ 個数が質量を決める。
- 誤差の置き場所が移った(観察2.3):$N_A$ から $M(^{12}\mathrm{C})$ へ。
- $M(^{12}\mathrm{C})=11.9999999958$ g/mol(検算3.1):もう $12$ ちょうどではない。
- 差は $4.2\times10^{-9}$ g/mol(検算3.1):相対 $3.5\times10^{-10}$。
- 差 $/$ 不確かさ $=1.1667$(検算3.3):有意ではない。
- 「ずれた」ではない(観察3.5):「保証がなくなった」。
- 日常では見えない(検算4.1):$10^{-9}$ の現場だけ。
- 二行がちょうど入れ替わる(観察4.4):定義と測定の総数は同じ。
- 四つの単位で同じ(検算5.1):右の列はすべて数。
- 三重点も $273.16$ ちょうどではない(検算5.3):$\pm0.0001$ K。
結び:炭素 $12$ のモル質量は、もう $12$ ちょうどではない。$2019$ 年の SI 改定で $N_A$ が定義値になり、誤差の置き場所が入れ替わった。以前は質量が個数を決め、いまは個数が質量を決める。測定値は $M(^{12}\mathrm{C})=\mathbf{11.9999999958}$ g/mol であり、$12$ との差は $\mathbf{4.2\times10^{-9}}$ g/mol、相対で $3.5\times10^{-10}$ である。ただし正確に言わねばならない。差は不確かさの $\mathbf{1.17}$ 倍にすぎず、$12$ と有意に違うとは言えない。「$12$ からずれた」のではなく、「$12$ である保証がなくなった」のである。同じ乗り換えが四つの単位で起きた。キログラム、アンペア、ケルビン、モル。水の三重点も、もう $273.16$ K ちょうどではない。分けるものは一つ、どちらを規約として固定したか。固定した側は定義になり、「本当にその値か」と問えなくなる。残った側は測定になり、その問いが立てられるようになる。$2019$ 年に動いたのは値ではなく、どの等号にその問いを立てられるかであった。
参考文献
- Bureau International des Poids et Mesures (2019). The International System of Units (SI), 9th edition. Sevres: BIPM.
- Tiesinga, E., Mohr, P. J., Newell, D. B. and Taylor, B. N. (2021). CODATA Recommended Values of the Fundamental Physical Constants: 2018. Reviews of Modern Physics, 93(2).
- Mills, I. M., Mohr, P. J., Quinn, T. J., Taylor, B. N. and Williams, E. R. (2006). Redefinition of the Kilogram, Ampere, Kelvin and Mole: a Proposed Approach to Implementing CIPM Recommendation 1 (CI-2005). Metrologia, 43(3).
- Andreas, B. et al. (2011). Determination of the Avogadro Constant by Counting the Atoms in a $^{28}$Si Crystal. Physical Review Letters, 106(3).
- Newell, D. B. et al. (2018). The CODATA 2017 Values of $h$, $e$, $k$, and $N_A$ for the Revision of the SI. Metrologia, 55(1).
- 山岸勇輝 (2026). 等号にも別根がある。第3版:山岸全同期方程式が結んでいたもの [論文16]. Zenodo. 10.5281/zenodo.21600471
- 山岸勇輝 (2026). 規約と事実を分ける。ポアンカレの規約主義と、体系の「足場」($c$ の定義値・単位の約束) [論文95]. Zenodo. 10.5281/zenodo.21758621
- 山岸勇輝 (2026). 「圧力」は四つの別の量であり、単位が同じことは何も保証しない [論文196]. Zenodo. 10.5281/zenodo.22107518
- 山岸勇輝 (2026). 三重点が「点」であることは、実験事実ではない [論文268]. Zenodo. 10.5281/zenodo.22169829
作成にあたって:本稿の着想と内容は、著者自身の考察に基づくものです。文章の構成整理や英訳、数式の確認には AI(大規模言語モデル)の助力を得ました。最終的な内容の解釈や誤りがあれば、それらはすべて著者の責に帰します。お気づきの点があれば、ご教示いただければ幸いです。
書誌
山岸勇輝(2026)「炭素 12 のモル質量は、もう 12 ちょうどではない」[論文295]. Zenodo.
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引用するとき
山岸勇輝 (2026). 炭素 12 のモル質量は、もう 12 ちょうどではない [論文295]. YOI: https://www.yamagishiyuuki.com/yoi/295 ・ DOI: 10.5281/zenodo.22171659
Yamagishi, Y. (2026). The Molar Mass of Carbon-12 Is No Longer Exactly 12 [Paper 295]. YOI: https://www.yamagishiyuuki.com/yoi/295; DOI: 10.5281/zenodo.22171659
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