要旨
論文137 は KL ダイバージェンスが距離でないことを書いた。本稿はその対になるワッサースタイン距離を置き、二つが競合しないこと(別の問いに答えていること)を書く。新しい数学定理も新しい物理法則も主張しない。
第一に、ワッサースタインは距離である。標本三つ組を $3000$ 通り取り、非対称は $0$ 件、三角不等式の破れも $0$ 件であった。論文137 の KL は同じ試験で $25.4\%$ 破れていた(第2節)。
第二に、これが本稿の芯である。分ける実例は「台が交わらないとき」である。距離 $d$ だけ離れた二つの点質量について、KL はどの $d$ でも無限大であり、$W_2$ はちょうど $d$ である($d=0.5,1,5,100$ で確認)。重なりがあるうちは両方が離れ具合を見る。等分散の正規分布なら KL は $d^2/2$、$W_2$ は $d$($d=5$ で $12.500000$ 対 $5$、閉じた形と厳密一致)。「二つの分布はどれだけ違うか」は二つの問いである。重なっているか、そしてどれだけ離れているか(第3節)。
第三に、ワッサースタインが優れているのではない。前提が多いのである。ワッサースタインは台の上の距離を要求する。順序のない三つのカテゴリに対して KL は $0.223805$ と定まるが、ワッサースタインは「赤と緑がどれだけ離れているか」を誰かが決めるまで形にならない(第4節)。
第四に、熱方程式が二度書ける。点から出発した熱核について $W_2=\sqrt{2t}$ である($t=0.25,1,4$ で確認)。$[t]=L^2$ という論文119 の放物型の尺度がそのまま出る。そしてオットーの定理により、熱方程式はこの計量におけるエントロピーの勾配流である。同じ方程式が、二通りに書ける(第5節)。
第五に、収束率が $d=3$ で性格を変える。同一分布からの二標本間の $W_1$(真値 $0$)を測ると、標本を $4$ 倍したときの改善は $d=1$ で $2.18$ 倍、$d=3$ で $1.59$ 倍、$d=8$ で $1.22$ 倍である。率は $d\le2$ で $n^{-1/2}$、$d\ge3$ で $n^{-1/d}$、中心極限の率と被覆の率が $d=3$ で入れ替わる(第6節)。
射程(何を示さないか)
本稿の射程:新しい数学定理も新しい物理法則も主張しない。モンジュ、カントロヴィチ、オットーの勾配流、フルニエ=ギヤンの収束率はいずれも標準的である。本稿が加えるのは、距離としての性質を KL と並べて数えたこと、台が交わらない場合を分離子として書いたこと、前提の非対称(地の距離が要るかどうか)を書いたこと、収束率の二つの領域を数値で確かめたことだけである。ワッサースタインが KL より優れているとは言わない。
数値について:$d=1$ の輸送費用は整列による厳密計算である。$d\ge2$ は対数領域シンクホーン法(エントロピー正則化)によった。実装は一次元の厳密解と突き合わせて検証した(相対誤差 $0.1$〜$1.1\%$)。スライス版は用いていない。それは一次元射影の平均であって収束率が次元に依らず、本稿が調べている効果を隠してしまうからである。
1. 記法と位置づけ
二つの確率測度 $\mu,\nu$ について、$p$-ワッサースタイン距離を
$$ W_p(\mu,\nu)=\Bigl(\inf_{\gamma}\int \|x-y\|^p\,d\gamma(x,y)\Bigr)^{1/p} \tag{1} $$
と書く($\gamma$ は周辺分布が $\mu,\nu$ である結合)。
位置づけ:既存の定理を並べ、その射程を書く。新しい定理は主張しない。論文137 の続きであり、対である。
2. ワッサースタインは距離である
検算 2.1:直線上の正規分布から取った標本三つ組を $3000$ 通り作り、$W_1$ について対称性と三角不等式を調べた。
| ワッサースタイン(本稿) | KL(論文137) | |
|---|---|---|
| 非対称の件数 | 0 / 3000 | 常に非対称 |
| 三角不等式の破れ | 0 / 3000 | 25.4% |
(証明終)
観察 2.2 ワッサースタインは距離の公理を満たす。ゆえに「どちらがどれだけ遠いか」の一貫した順序を与える。論文137 で KL が与えられなかったものである。
3. 分ける実例は、台が交わらないとき
検算 3.1(重なりがある場合):等分散の正規分布を $d$ だけずらすと、本稿の数値計算では
| $d$ | KL(数値) | $d^2/2$ | $W_2$ |
|---|---|---|---|
| 0.5 | 0.125000 | 0.125000 | 0.5 |
| 1.0 | 0.500000 | 0.500000 | 1.0 |
| 5.0 | 12.500000 | 12.500000 | 5.0 |
閉じた形と厳密に一致する。重なりがあるうちは、どちらも離れ具合を見ている(KL は $d^2$ で、$W_2$ は $d$ で)。(証明終)
検算 3.2(重なりが無い場合):距離 $d$ だけ離れた二つの点質量について
| $d$ | KL | $W_2$ |
|---|---|---|
| 0.5 | 無限大 | 0.5 |
| 1.0 | 無限大 | 1.0 |
| 5.0 | 無限大 | 5.0 |
| 100.0 | 無限大 | 100.0 |
KL はどの $d$ でも同じ値(無限大)を返し、$d$ を区別しない。$W_2$ は $d$ をそのまま返す。(証明終)
観察 3.3 (これが芯である) 「二つの分布はどれだけ違うか」という問いは、実は二つの問いである。
| 問い | 答える道具 | 台が交わらないとき |
|---|---|---|
| 重なっているか | KL(論文137) | 無限大(それ以上言えない) |
| どれだけ離れているか | ワッサースタイン | 距離をそのまま返す |
一語「隔たり」が、この二つを一緒にしている(論文17)。
4. ただし、前提が違う
観察 4.1 (1) には $\|x-y\|$ が現れる。ワッサースタインは台の上の距離を要求する。KL の定義 $\sum p\log(p/q)$ にはそのようなものが現れない。
検算 4.2:順序のない三つのカテゴリ上の分布 $p=(0.5,0.3,0.2)$、$q=(0.2,0.5,0.3)$ について、本稿では $D(p\|q)=0.223805$ を得た。一方ワッサースタインは、赤と緑がどれだけ離れているかを誰かが決めるまで形にならない。(証明終)
観察 4.3 (優劣ではない) ワッサースタインは単純に「より良い」対象ではない。要求する入力が多く、その入力が存在しない場では作れない。二つの道具、二つの前提である(論文95)。
5. 熱方程式は、二度書ける
検算 5.1:点から出発した熱核は $\rho(\cdot,t)=N(0,2t)$ だから $W_2(\delta_0,\rho_t)=\sqrt{2t}$ である。本稿では $t=0.25,1,4$ について $0.708606$、$1.414860$、$2.829112$ を得た(理論値 $0.707107$、$1.414214$、$2.828427$)。(証明終)
観察 5.2 (尺度) $W_2\propto\sqrt{t}$ は $[t]=L^2$ である。論文119 が第四の時計について書いた放物型の尺度がそのまま出る。
観察 5.3 (オットーの定理) 熱方程式は、ワッサースタイン計量におけるエントロピーの勾配流である(オットー 2001、ジョーダン=キンダーレーラー=オットー 1998)。同じ方程式が二通りに書ける。偏微分方程式として、そして最急降下として。後者の読みは、この計量を用意して初めて意味を持つ。
そして体系の中に同じ形がある。論文110 はリッチ・フローが繰り込み群の流れであることを書いた。「同じ方程式の二つの記述」は、そこでも起きていた。ただし住所は別である(あちらは弦の世界面、こちらは確率測度の空間)。
6. 収束率は、$d=3$ で性格を変える
検算 6.1:同一の標準正規分布から取った二つの標本のあいだの $W_1$、真の値は $0$ だから、測っているのは推定誤差だけである。
| $d$ | $n=64$ | $n=256$ | 比 | 予測 |
|---|---|---|---|---|
| 1 | 0.22411 | 0.10263 | 2.18 | 2.00 |
| 2 | 0.55029 | 0.27474 | 2.00 | 2.00 |
| 3 | 0.82414 | 0.51940 | 1.59 | 1.59 |
| 5 | 1.48053 | 1.06582 | 1.39 | 1.32 |
| 8 | 2.26564 | 1.86390 | 1.22 | 1.19 |
予測は $4^{\min(1/2,\,1/d)}$ である。(証明終)
観察 6.2 (二つの領域) 率は $d\le2$ で $n^{-1/2}$、$d\ge3$ で $n^{-1/d}$ である。すなわち「次元の呪い」は $d^{-1}$ が $1/2$ を下回る $d=3$ から始まる。中心極限の率と被覆の率が、そこで入れ替わる。
観察 6.3 (これは次元が選ぶ側である) 論文114 は次元を選ぶ事実と選ばない事実を分けた。ここでの $d=3$ は、選ぶ側の閾値である。ただし選んでいるのは幾何ではなく、二つの率のどちらが勝つかである。論文133 のジェームズ=スタインの $d\ge3$ とは、閾値が同じ数でも根が違う(あちらは許容性、こちらは被覆数)。
観察 6.4 (厳密性と可測性) 距離の公理を満たすことは、推定しやすいことを意味しない。論文136 で見た形がここでも現れる。正しいことと、測れることは別である。
7. 結論
- ワッサースタインは距離である(検算2.1)。$3000$ 組で非対称 $0$ 件、三角不等式の破れ $0$ 件。論文137 の KL は $25.4\%$ 破れていた。
- 分ける実例は台が交わらないとき(検算3.2)。KL は $d=0.5$ でも $100$ でも無限大、$W_2$ は $d$ をそのまま返す。
- 「どれだけ違うか」は二つの問いである(観察3.3)。重なっているかとどれだけ離れているか。
- ただし前提が違う(検算4.2)。ワッサースタインは台の上の距離を要求し、KL は要求しない。優劣ではなく、前提の違いである。
- 熱方程式は二度書ける(検算5.1・観察5.3)。$W_2=\sqrt{2t}$ すなわち $[t]=L^2$(論文119)、そしてオットーの定理により勾配流。
- 収束率は $d=3$ で性格を変える(検算6.1)。$d\le2$ で $n^{-1/2}$、$d\ge3$ で $n^{-1/d}$。距離であることは、測りやすさを意味しない(論文136)。
結び:KL とワッサースタインは競合していない。片方は重なりを、もう片方は隔たりを測っている。台が交わらない場所で、その差がいちばんはっきり出る。片方は「無限に違う」としか言えず、もう片方は距離を答える。どちらを使うかは、こちらがどちらの問いを持っているかで決まる。
参考文献
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- 山岸勇輝 (2026). 別根と言うのは半分である。住所を書け [論文17] 第3版. Zenodo. 10.5281/zenodo.21600813
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- 山岸勇輝 (2026). 規約と事実 [論文95]. Zenodo. 10.5281/zenodo.21758621
- 山岸勇輝 (2026). カルデロンの逆問題 [論文99]. Zenodo. 10.5281/zenodo.21758790
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- 山岸勇輝 (2026). フィッシャー計量が一意なのは、古典の側だけである [論文133]. Zenodo. 10.5281/zenodo.22080550
- 山岸勇輝 (2026). 等式は厳密でも、平均は裾が握っている [論文136]. Zenodo. 10.5281/zenodo.22081230
- 山岸勇輝 (2026). KL は距離ではない。だが、その二階微分は計量である [論文137]. Zenodo. 10.5281/zenodo.22081369
- 山岸勇輝 (2026). どこまでがハミルトニアンかは、規約である [論文138]. Zenodo. 10.5281/zenodo.22081512
作成にあたって:本稿の着想と内容は、著者自身の考察に基づくものです。文章の構成整理や英訳、数式の確認には AI(大規模言語モデル)の助力を得ました。最終的な内容の解釈や誤りがあれば、それらはすべて著者の責に帰します。お気づきの点があれば、ご教示いただければ幸いです。
書誌
山岸勇輝(2026)「重なりを測るのか、隔たりを測るのか」[論文139]. Zenodo.
DOI: 10.5281/zenodo.22081801
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引用するとき
山岸勇輝 (2026). 重なりを測るのか、隔たりを測るのか [論文139]. YOI: https://www.yamagishiyuuki.com/yoi/139 ・ DOI: 10.5281/zenodo.22081801
Yamagishi, Y. (2026). Measuring Overlap, or Measuring Displacement [Paper 139]. YOI: https://www.yamagishiyuuki.com/yoi/139; DOI: 10.5281/zenodo.22081801
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