飛行機で来た 26 歳の買い手、歩いて回れる船室、そして売らずに信託へ渡すまで
グレイディ・ホワイトは、アメリカのノースカロライナ州グリーンビルで、船外機で走る釣りの船を造っている会社です。いまは沖の釣りの船の名前として知られています。けれど会社が 50 周年に出した公式の本を読むと、始まりは木の船で、最初の十年で倒産の手前まで行っていました。そこから立て直した人は、船のことをほとんど知らない 26 歳でした。公式の本と、会社が公開している知らせを読んでいきます。
CHAPTER 1木の船と、倒産の手前
1-1 北の船大工と、南の商売人
会社の名前は、二人の創業者の名字です。公式の本は、この二人を、育ちは違うけれど向いている方向が同じだった、と書いています。
グレン・グレイディは、北のウィスコンシン州の人でした。五大湖の荒れる水のそばで育ち、若いうちから船大工になります。1948 年にトンプソンという木の船の会社に入り、1953 年には同じ一族が作った別の会社に移りました。塗装の班の親方から、販売の責任者にまでなっています。
ドン・ホワイトは、南のノースカロライナ州の人です。金物の店を十年やり、自動車の販売店をいくつか持ち、土地の開発にも手を出し、船の販売店も始めました。本は、根っからの商売人だったと書いています。ホワイトがグレイディのいた会社の船を扱う代理店になったことで、二人は知り合いました。
1958 年に二人は組んで、会社を作ります。場所はグリーンビルの、たばこの葉をしまっていた古い倉庫でした。倉庫のあった通りの名前は、アルベマール通りです。前に書いた造船所アルベマーレと同じ綴りで、あちらも同じノースカロライナ州の会社です。偶然の一致です。
最初の四隻は、1960 年 2 月 26 日に工場を出ました。17 フィートの「ハタラス」という型です。二隻はシカゴへ、二隻はセントルイスへ送られました。このとき働いていた人は 38 人。その年に 1,000 隻を造るという、強気の計画も発表しています。会社はいま、自分の始まりを 1959 年と数えています。
1-2 美しい木の船と、乗り遅れた樹脂
二人が造ったのは、板を少しずつ重ねて張る、昔ながらの木の船でした。蒸気で曲げた白樫の骨組みに板を張り、何千本もの真ちゅうのねじで留めます。本は、美しくて、よく働く船だったと書いています。北東部でとくに人気が出ました。
1965 年には、13 の型を造るまでになっています。いちばん大きい船は 33 フィートありました。
ところが、創業から十年たたないうちに、会社はお金に困ります。本は理由を二つ、はっきり書いています。
一つは、樹脂の船に乗り遅れたことです。会社ができた年は、ガラス繊維で強くした樹脂の船が広まり始めた年でもありました。けれどグレイディは根っからの木の船の人で、切り替えが遅れました。販売店は、まだ木の船を造っているのかと不満を持っていた、と当時の営業の人が話しています。
もう一つは、値段の付け方です。本によれば、会社は、造るのにいくらかかるかではなく、ほかの会社がいくらで売っているかを見て値段を決めていました。良い船を造っても、売るほど苦しくなる仕組みだったわけです。1960 年代の半ばには、倒産の手前でふらついていた、と本は書いています。
1-3 1968 年、飛行機で来た 26 歳
ここで出てくるのが、エディ・スミスです。1968 年に 26 歳。父親の会社で働いていました。靴下やストッキングを通信販売する会社です。
船との出会いは偶然でした。エディは学生のころに飛行機の操縦を覚えていて、ある日、知り合いの自動車販売店の人に頼まれます。急ぎの用があるので、200 マイル東のグリーンビルまで飛んでくれないか。空港に迎えに来たのが、ドン・ホワイトでした。船の工場で二人が話すのを横で聞いていると、ホワイトがこう言いました。大きな問題がある。会社をたたむか、売るかだ。
帰りの飛行機で、エディは操縦よりも別のことを考えていました。父親に、家の仕事を離れたいと言うこと。そして、お金を貸してほしいと言うこと。本人が本の中でそう話しています。
家の会計の相談役は、この会社はもう救えないからやめておけ、と言ったそうです。それでも一家は会社を買いました。エディには、船の経験がほとんどありませんでした。
エディがまずやったのは、工場を任せる人を探すことです。業界の人はみな、船を知っている人を雇えと言いました。けれど彼が選んだのは、ブラシの工場の長をしていたワイリー・コーベットです。爆撃機を作ろうがヘアピンを作ろうが、ものづくりの上手な人は船を作らせても上手なはずだ。エディはそう考えた、と話しています。
コーベットは、暑い 7 月の日に来ました。午前中に工場を歩いて回り、午後に全員を集めて、仕事のやり方を改めてもらうと告げます。次の日に出てきたのは、四分の三ほどでした。それから彼は、原価をきちんと出す仕組みを入れました。倒れかけた会社には大きな出費でしたが、本は、いちばん良い投資の一つだったと書いています。
一年目は、見込みの三分の一しか売れず、見込みの三倍の損が出ました。二年目の損は見込みの半分。三年目に、初めて損がなくなりました。
- 1958グレイディとホワイトが組んで会社を作る。場所は古いたばこの倉庫
- 19602 月 26 日、最初の四隻が工場を出る
- 1965木の船を 13 の型まで広げる
- 196826 歳のエディ・スミスの一家が会社を買う。7 月にワイリー・コーベットが来る
CHAPTER 2何でも造る会社から、沖の釣りの船へ
2-1 新しい工場と、石油の危機
立て直しの最初の数年、会社が造っていたのは釣りの船ではありません。水上スキーを引く船や、家族で川を走る小さな船が中心でした。本によれば、会社のカタログに本気の釣りざおが初めて写ったのは、1971 年です。
1972 年、会社は二つのことをしています。一つは、すべての船に、沈まないだけの発泡材を入れたこと。もう一つは、12 月に新しい工場へ移ったことです。コーベットが自分で設計した工場で、造る場所だけで 120,000 平方フィートありました。屋根が雨漏りし、床の板が抜けた倉庫から、やっと出られたわけです。
ところが、時期が悪すぎました。1973 年に石油の危機が来ます。エディは本の中で、こう振り返っています。そのあとの不景気で、船を造る会社の 40 から 45 パーセントが消えた。自分たちも、かろうじて残っただけだ。新しい工場に移ったとたんで、船はただでも引き取ってもらえなかった、と。
それでも会社は残りました。コーベットは、理由を一言で言っています。本当の原価を知っていること。もうけを出していなければ、嵐は越えられない。
2-2 1974 年、シカゴで見た「歩いて回れる船室」
1974 年の 1 月、エディとコーベットはシカゴの大きな船の展示会に出かけました。ほかの会社の船を見て回っているうちに、見たことのない形に気づきます。船室のある船なのに、船室のまわりをぐるりと歩いて回れる通路が、型で一体に作ってあったのです。
帰りの飛行機で、コーベットは配られた塩味のピーナツの袋を眺めていました。本は、たぶん原価を見積もっていたのだろう、と冗談を書いています。そしてエディに言いました。あれを造らなきゃいけない。あの、歩いて回れるやつだ。
展示会で見た船は、底が三つに分かれた形でした。二人はこれを、波を切る V 字の底の船に載せることにします。こうして 1975 年に出たのが、20 フィートの「204-C」です。コーベットによれば、この船はほかのどの型と比べても倍の数が売れ、それが何年も続きました。会社にとって最初の大当たりでした。
ここで面白いのは、エディの言い方です。自分たちは何かを発明したとは言いたくない。歩いて回れる船室も、船外機を後ろへ張り出して付ける台も、屋根も、広めはしたが発明はしていない。まったく新しいものなど、たぶん無い、と。
この船のあと、会社は少しずつ海の釣りへ寄っていきます。決定的だったのは 1979 年の販売店の集まりでした。水上スキーの船を期待して集まった販売店に、コーベットが告げます。これからは 19 フィートの釣りの船を造る。スキーの船はもうあまり造らない。販売店は不満でした。けれど 1982 年には、すべての型の床が、滑りにくくて洗いやすい樹脂の内張りになっています。エディは、これを会社の分かれ道の一つに挙げています。それまでの自分たちは、何でも造っていて、どっちつかずだった。沖へ出る釣り人に賭けることに決めた。陸が見えなくなる所まで小さな船で出る人は多くない。その小さな市場のいちばん上に、自分の場所を作った、と。
逆のほうへ行ってみたこともあります。1978 年に、日光浴の台を付けた、ぜいたくな遊びの船を出しました。一年半で 50 隻を造ったところで、二人は「うちの客ではない」と結論を出して、やめています。
2-3 1985 年、樹脂の事故
沖の釣りへ向かう途中で、会社を沈めかねない出来事が起きました。1985 年のことです。
工場で、一人の働き手が、製造の責任者を呼び止めました。船の後ろの板に張ったガラス繊維が、手で簡単にはがれてしまう。調べると、ほかの船も同じでした。金曜に半分張って、月曜に残りを張った所が、くっついていなかったのです。
原因は、仕入れた樹脂でした。樹脂の会社は、ふつうの温度で試したときには問題を再現できませんでした。温度を上げて試して、やっと同じことが起きます。続けて張れば問題は出ないけれど、日をまたいで張ると、はがれる樹脂だったわけです。
本が強調しているのは、そのあとの動きです。客からの苦情は、一件も来ていませんでした。それでも会社は自分から知らせて、およそ 400 隻を調べに回りました。問題のあった船は、引き取って、新しい船体に載せ替えて、無料で送り返しています。コーベットによれば、当たっていたのは 150 隻ほどでした。樹脂の会社が責任を認める前に、会社はもう動き出していた、と当時の責任者は話しています。
調べに行った先の一人は、弁護士でした。船体が悪かったらどうなるのかと聞かれて、無料で船体を替えて送り返しますと答えると、弁護士はこう言ったそうです。つまり、あなた方を訴えなくていいのか。
はがした船体は、重機でつぶして、ダンプカーで運び出しました。会社の公式サイトは、1980 年代に会社がいちばん大きな試練の一つを受けた、と書いています。本を読むかぎり、この出来事のことでしょう。
- 1972すべての船に沈まないだけの発泡材を入れる。12 月に新しい工場へ移る
- 1973石油の危機
- 1975歩いて回れる船室の 204-C を出す
- 1979販売店の集まりで、釣りの船へ切り替えると告げる
- 1982すべての型の床が、滑りにくい樹脂の内張りになる
- 1985樹脂の事故。およそ 400 隻を調べ、船体を無料で替える
CHAPTER 3大きくしない、売らない
3-1 パン工場ではなく、角のパン屋
1980 年代の後半、船はよく売れました。本によれば、1988 年と 1989 年に、会社は過去いちばん多くの船を造っています。販売店は、もっと造ってくれと求めました。
ここでエディは、広げないと決めました。人を急に増やせばもっと造れるけれど、それでは質が落ちる。そう考えて、造る数を抑え、販売店ごとに過去三年の実績に合わせて割り当てる仕組みを作りました。もうかるときに、もうけを追いかけない会社は当時ほかに無く、話題になったそうです。
のちに社長になるクリス・キャロルは、これを分かりやすく言っています。うちは大きなパン工場になりたいのではない。角のパン屋でいたい。いちばん大きい会社ではなく、いちばん良い会社でありたい。
そのあとすぐ、不景気が来ました。1990 年に、高い船にかかるぜいたく税が始まります。バイキングの社史が、働く人を大きく減らすことになったと書いている、あの税です。グレイディ・ホワイトの本は、販売店も会社も手元にお金を残していたので持ちこたえられた、と書いています。
キャロルが会社に入ったのは 1975 年でした。最初の仕事は、その日にどの船を出荷するかを決める係です。1993 年にコーベットが引退すると、社長になりました。本によれば、会社の持ち主ではない女性が、大きな造船所の社長になったのは初めてでした。
3-2 船体と、船外機
いまの会社の目印は、二つあります。乗り心地の良い船体と、船外機です。どちらも、この時期に決まりました。
船体のほうは、1987 年に始まります。もっと大きい船が要ると考えた会社は、ニューイングランドの設計の事務所 C・レイモンド・ハントと組みました。できたのが、1989 年の「28 マーリン」です。乗り心地が良かったので、1992 年から、ほとんどの型の底がこの船と同じ考えで作り直されました。
コーベットの説明では、新しい底は、いちばん後ろから V 字で始まって、前へ行くほど角度がきつくなります。平らな所がどこにもありません。人が座るあたりでは後ろより 10 度ほど鋭く、波に当たったときの乗り心地が良くなる、ということです。
船外機のほうは、1990 年です。エディは、ヤマハの担当者とホテルの部屋で話し合って、取り決めを結びました。それまでエンジンの会社は、船の販売店にエンジンを売り、販売店が船に載せていました。この取り決めで、ヤマハは造船所に直接売るようになり、グレイディ・ホワイトは工場でエンジンの配線や計器まで仕上げて出すようになります。当時、ほかのエンジンの会社は造船所を買い集めていました。
そのあと会社は、船の中にエンジンを置く型を一つずつやめ、船外機だけの会社になっていきました。船外機は船の中の場所を取りません。その分を船室に回したのが、2001 年の 33 フィートの「330 エクスプレス」です。本は、量産の造船所が出した船外機の船として、それまででいちばん大きかったと書いています。2005 年には 36 フィートの型が続きました。
この本の良いところは、うまく行かなかった船も書いていることです。操縦席を上に載せた船は、沖の釣りには向かず、42 隻で終わりました。船体が二つの船は、買った人には好かれたのに、会社の系列には合わず、2000 年にやめています。
| 年 | 船 | 本に書かれていること |
|---|---|---|
| 1978 | 日光浴の台を付けた遊びの船 | 一年半、50 隻でやめた。「うちの客ではない」 |
| 1991 | 操縦席を上に載せた船 | 42 隻。乗り心地は良かったが、売れなかった |
| 1996 | 船体が二つの船 | 買った人には好かれたが、2000 年にやめた |
3-3 2026 年、会社を信託に渡す
本が出たのは 2009 年でした。そのあとのことは、会社の公式サイトに出ています。
2026 年 7 月 27 日、会社は一つの知らせを出しました。エディ・スミスが、会社の支配を、目的を守るための永続の信託に贈った、という知らせです。あわせて、会社の利益を慈善に回すための団体も作られます。
知らせによれば、その二年前、エディは会社の先行きを考えていて、4 億ドルを超える値段で買いたいという申し出を受けました。けれど断っています。買い手が、会社のやり方を守ってくれるとは限らないからです。働く人と利益を分け合うこと。質の高い船を造ること。客を満足させること。地元を支えること。エディは、うまく行ったのなら、それを手伝ってくれた人たちと分け合うべきだ、というのが自分の信念だと述べています。
信託は、会社がグリーンビルで続くこと、そしてエディの考え方が守られることを見届ける役目を持ちます。経営の顔ぶれは変わりません。社長はいまもクリス・キャロルです。エディは、経営から離れた名誉の役に移ります。発表の場には 350 人を超える働き手が集まり、全員に特別の手当が贈られました。
木の船にこだわって倒れかけた会社を、船を知らない 26 歳が買ってから、五十八年です。最初の年に 17 フィートの船を四隻送り出した会社は、いま 18 フィートから 45 フィートまでの船を造っています。大きくしすぎないと決め、売らないと決めた。私はこの社史を、断ったことの記録として読みました。
SOURCES出典
- Grady-White Boats 公式の 50 周年記念の本「An American Boat Company: Grady-White Boats Since 1959」(PDF)
https://grady-white.files.svdcdn.com/production/Documents/gw_50thbook.pdf?dm=1764783516(2026-10-02 確認) - Grady-White Boats 公式サイト「Our Legacy」
https://www.gradywhite.com/our-legacy/(2026-10-02 確認) - Grady-White Boats 公式サイト「Perpetual Purpose Trust」(2026 年 7 月 27 日の知らせ)
https://www.gradywhite.com/perpetual-purpose-trust/(2026-10-02 確認) - Viking Yachts 公式サイト「History」(同じ時期のぜいたく税)
https://www.vikingyachts.com/History.asp(2026-10-02 確認) - Albemarle Boats 公式サイト「Why Albemarle」(同じノースカロライナ州の造船所)
https://www.albemarleboats.com/the-albemarle-story(2026-10-02 確認)
この記事は、上の資料の原文を確かめたうえで書いています。年や長さなどの数は、資料に書かれているものだけを使いました。資料どうしで書き方が違う所は、本文でそのように断っています。記事の中の社名と艇名は、各社の商標です。