ヤマハの船外機は、「さすが楽器屋の音だ」と笑われるところから始まった

エンジンと会社

消防用の水槽、黄色い帽子、洪水の国。会社が公開している六十年の物語

船の後ろに付けるエンジンを、船外機と言います。ヤマハの船外機は、いま世界中の海や川で使われています。けれど会社が公開している物語によれば、最初の一台は、うるさくて、よく揺れました。使った漁師に皮肉を言われたことまで、会社は自分で書き残しています。そこからどうやって世界に広がったのか。ヤマハ発動機が英語で公開している物語を、章を追って読んでいきます。

CHAPTER 1社長のヨットと、消防用の水槽

1-1 1953 年、九十日の旅

物語は、1953 年から始まります。ヤマハ発動機を作った川上源一が、社長になってすぐ、アメリカとヨーロッパを見て回りました。90 日の旅です。その旅のあいだに何度も、人びとが水の上で遊んでいるところを見ました。川上は、こういう遊びがいつか日本にも来る、と確信します。

帰ってくると、川上は帆で走る小さなヨットを手に入れました。水の上の遊びの良さを、自分でやって確かめるためです。浜名湖で乗りました。

このヨットには、当時のアメリカの有名な会社の船外機が付いていました。ところが、これがよく壊れます。そこで日本の会社のものに替えました。こんどは壊れにくいけれど、走りがアメリカのものに遠く及びません。

無いのなら、ヤマハが造ればいい。物語は、これが川上の思いつきだったと書いています。

ただ、時代がまだ早すぎました。日本は、戦後の高い成長に入る手前です。電気の製品がやっと家に入り始めたころで、週末に船で遊ぶという考えは、ほとんどの人の頭にありませんでした。造れたとしても、買う人がいなければ商売になりません。川上は、当面の相手を仕事で使う人に絞りました。船にエンジンを付け始めていた漁師たちです。

1-2 二人の技師と、最初の一台

ヤマハの最初の船外機は「P-7」と言います。開発の班は、技師がたった二人でした。

物語によれば、最初に二人に渡された資料は、外国で売られている船外機のカタログと案内の冊子だけだったそうです。あとは、やってみて、直して、の繰り返しでした。

1958 年に、試作の一台ができます。ヤマハのオートバイのエンジンを元にした、250cc のものでした。けれど、エンジンを支える部分が壊れるなどの失敗が続き、これを売り物にする計画は取りやめになります。

このころ技師たちは、試し方の決まりも自分たちで作っていました。試す場所は、工場にあった消防用の水槽です。そこで試作のエンジンを 24 時間回し続けます。何かが壊れるまで回し、壊れたら調べて、直し方を見つける。その繰り返しでした。

1960 年、売り物になる船外機がやっと完成します。月に 200 台を造る計画で、世に出ました。ヤマハの船外機の歴史は、ここから数えます。

ところが物語は、すぐにこう続けています。P-7 は、とても一流とは呼べなかった。うるさくて、かなり揺れた。当時の技師の一人は、苦笑いしながらこう振り返っています。使った漁師が、ときどき皮肉を言った。なかなかの音だね。さすが楽器の会社が造った船外機だ、と。

自分の会社の最初の製品について、ここまで書く社史は多くありません。

1-3 1961 年、「黄色い帽子」

ヤマハの船外機が受け入れられたのは、その一年あとです。1961 年の 11 月、二番目の型「P-3」が出ました。63cc で、3 馬力。仕事で使う人の市場では、3 馬力がふつうの大きさでした。

この型は、長もちすることと、さびにくいことを中心に作られています。そのために、ケイ素を混ぜたアルミニウムの合金を、専用に開発しました。型に流し込んで作る部品を使ったのも、日本の船外機では初めてでした。軽く、小さくするためです。かけやすく、扱いやすいことにも気を配っています。

物語が強調しているのは、作り方の違いです。P-7 は、手探りだけで作りました。P-3 は、市場の声を聞いて作りました。売り出したあとも、不満が出るたびに、技師が販売店へ何度も出かけて話を聞きます。使っている人から直接聞くこともありました。それを直しに生かす。物語は、ヤマハが市場の声を製品に入れた最初の例だ、と書いています。

扱いやすいという評判が広がると、P-3 は日本の漁港に増えていきました。千葉県の東側のある漁師町では、たった一年で、港のほとんどの船がヤマハに替わったと言われています。

この船外機のエンジンのおおいは、黄色でした。女性が形を考えたもので、帽子に似ています。漁師たちは、親しみをこめて「ヤマハの黄色い帽子」と呼びました。

TIMELINE最初の二台まで(公式の物語から)
  1. 1953川上源一が、アメリカとヨーロッパを 90 日かけて見て回る
  2. 1958オートバイのエンジンを元にした 250cc の試作。売り物にはならず、取りやめ
  3. 1960最初の船外機 P-7。月に 200 台の計画
  4. 196111 月に、3 馬力の P-3。「黄色い帽子」と呼ばれる

CHAPTER 2洪水の国と、村から村へ

2-1 1967 年、大使のひとこと

外国へ出ていくきっかけは、一つの会話でした。

1967 年、川上は、日本に来ていたパキスタンの大使と会いました。大使は、こう話したそうです。雨の季節になると、道が水につかって、バスが走れなくなる。川上は答えました。ヤマハは船外機を造っている。何かの役に立つかもしれない。

物語は、これがヤマハの船外機が外国の市場へ出ていく始まりだった、と書いています。

ヤマハの技師たちが出かけたのは、当時の東パキスタン、いまのバングラデシュです。そこで見たのは、数えきれない水路と、水の上を行き来する暮らしでした。船外機が求められる余地は、とても大きい。技師たちはそう感じました。

けれど、すぐには行きません。まず、土地の船の形が問題でした。昔からの船は、前も後ろもとがった形で、そのままでは船外機を付けられなかったのです。試行錯誤のすえに、ヤマハは新しい船外機を作り、同時に、船外機を付けられる新しい形の船も作りました。エンジンだけを売りに行ったのではなく、船ごと考えたわけです。

2-2 壊れたら、すぐ人を送る

苦労は続きます。次に出した型は、故障が多く、苦情がたくさん来ました。

ヤマハはすぐに、日本から整備の人を送って、様子を調べさせました。そこで分かったのは、船外機がとてつもなく厳しい使われ方をしている、ということです。仕事で使う船外機ですから、壊れると、その日から持ち主の暮らしに響きます。

事の重さを知った会社は、問題が起きるたびに、すぐに技師と整備の人を送って、最後まで直すようにしました。物語は、この「現場ですぐ動く」やり方が、仕事用の船外機でのヤマハの基本の姿勢になり、いまも生きている、と書いています。何かあればヤマハが来てくれる。その安心が、アジアの市場に広がっていきました。

1970 年代、ヤマハの船外機は、アメリカやヨーロッパの会社が当時まだ入っていなかった市場へ広がります。アフリカ、中央アメリカと南アメリカ、中東、南アジアと東南アジア、太平洋の島々です。

そこには別の問題がありました。一度壊れただけで、そのまま放っておかれて、さびていく船外機が多かったのです。そこでヤマハは、技術の人を送って、漁村から漁村へと回らせました。行く先々で、使われている船外機を整備して見せます。物語には、こういう一文があります。ヤマハの技師と整備の人が行かない場所は、世界のどこにも無かった。

しかも彼らは、ヤマハのものだけでなく、捨てられていたほかの会社の船外機まで直しました。こうして現場で得た知識は、新しい製品に生かされます。土地ごとの使われ方に合わせて細かく仕様を分けた、仕事用の船外機という分野が、ここから生まれました。

2-3 四十年、形を変えずに売れている一台

その仕事用の船外機の代表として、物語は一つの型に一章を当てています。「85A」です。

85A が出たのは 1978 年でした。そのときは、ヤマハの中でいちばん馬力の大きい型でした。それがいまも、およそ 100 の国と地域で売られています。新しい世代の型に替えられることなく、もとの形のまま売られ続けている型としては、ヤマハの船外機の中でいちばん古い。会社は、同じ品質の決まりで 40 年を超えて造り続けている、と書いています。

なぜそんなに長く続くのか。物語は、エンジンの丈夫さを挙げています。シリンダーは三つ。回る軸を 120 度ずつずらして釣り合いを取ってあり、回り方がなめらかで、揺れが少ない。なめらかなので、下のほうの歯車に加わる衝撃も小さく、そこの故障が減ります。整備がしやすいように作ってあることも、各地の整備の人にほめられたそうです。直径 14 インチまでのプロペラを付けられるので、軽くて速い船にも、重い船にも使えます。

新しいことを足すのではなく、変えないことで信頼される。前に書いた造船所の社史には、新しい型を次々に出す話が多く出てきました。船外機の、それも仕事で使う人の世界では、評価のされ方が違うようです。これは私の感想です。

会社は、いまも 2 ストロークという古い方式の型を造り続けています。物語は理由をこう書いています。この方式が求められるのは、遊びより仕事で使うほうが多い市場である。いちばん厳しい使われ方に耐える船外機を、できるだけ多くの人に届けたい、と。

TABLE外国の現場でヤマハがしたこと(公式の物語から)
場所と時期 起きたこと ヤマハがしたこと
東パキスタン、1967 年から 土地の船に船外機が付かない 船外機と一緒に、付けられる形の船も作った
同じ 次の型に故障が多く、苦情が来た そのたびに、日本から技師と整備の人を送った
各地、1970 年代 一度壊れた船外機が放っておかれる 漁村から漁村へ回って整備し、ほかの会社のものも直した

CHAPTER 3アメリカの市場と、4 ストローク

3-1 1983 年、シカゴ

仕事用の市場で足場を固めたあと、ヤマハは、遊びに使う大きい馬力の船外機に挑みます。物語は、先を行くアメリカの会社に追いつくのは簡単ではなかった、と書いています。

1974 年に、ヤマハは「55A」という型を出しました。水で冷やす二つのシリンダーの、760cc のエンジンです。物語は、これを「共同で開発した」型と書いています。この型が、大きい馬力の船外機を作っていくための土台になりました。1982 年には、200 馬力を超える型が出ています。

そして 1983 年の 9 月。物語は、こう書いています。ブランズウィックとの提携を解消したあと、ヤマハは、世界でも指折りの大きさの船の見本市に、ヤマハの名前の船外機をひとそろい並べた。場所はアメリカのシカゴです。これが、北アメリカの市場に船外機の会社として入った合図になりました。

ブランズウィックは、船外機のマーキュリーを部門として持っている会社です。提携がどういう中身だったのか、なぜ解消したのかは、物語には書かれていません。

前の記事で、グレイディ・ホワイトの二人が「歩いて回れる船室」を見つけたのも、シカゴの船の催しでした。その造船所の公式の本に、ヤマハが出てきます。

3-2 ホテルの部屋の取り決め

グレイディ・ホワイトの本によれば、1990 年、造船所の持ち主エディ・スミスと、ヤマハの担当者が、ホテルの部屋で話し合って、一つの取り決めを結びました。ヤマハが、エンジンを造船所に直接売る、という取り決めです。

それまでエンジンは、船の販売店に売られ、販売店が船に載せていました。そのころ、アメリカのエンジンの会社は、造船所を次々に買っていました。買った造船所の船には、自分の会社のエンジンだけを載せます。本は、ヤマハがそれとは違うやり方を選んだ、と書いています。造船所を買うのではなく、造船所と組む。本の中で、造船所の側の人はこう話しています。ヤマハはこちらへ来て、みんなの話を聞いて、帰ってエンジンを作った。それが、箱から出して、そのまま回った。

この関係は、エンジンそのものにも影響しました。本によれば、2006 年にヤマハが出した 8 つのシリンダーの「F350」は、グレイディ・ホワイトの大きな型を頭に置いて開発されたものです。漁村を回って声を聞いた会社が、アメリカでは造船所の声を聞いていたことになります。これは二つの資料を並べて読んだ私の感想です。

3-3 音と煙の少ないエンジンへ

船外機は長いあいだ、2 ストロークという方式が中心でした。軽くて、小さくて、加速が良いからです。ヤマハも、この方式で評判を作りました。

けれど物語は、ヤマハが世界の先頭の名前として認められた大きな理由は、環境にやさしいエンジンを作る技術だった、と書いています。アメリカは 1990 年代に、船外機の排気の決まりを初めて設けました。ほかの国も続きます。

ヤマハは、それよりずっと前から準備していました。排気のきれいな 4 ストロークという方式の研究を始めたのは、1975 年です。最初の型は 1984 年に出ました。1992 年には、この型を改良したものが、ドイツとスイスとオーストリアの境にある湖の排気の決まりを、世界で初めて通っています。当時、世界でいちばん厳しいと言われた決まりでした。

1998 年には、四つのシリンダーの「F100A」。そして 21 世紀の最初の年に、「F225A」が出ます。4 ストロークで 200 馬力を超える、世界で最初の大きな船外機でした。物語によれば、それまで、この方式で 200 馬力を超えるものを売り物にするのは、技術の面で難しいと考えられていました。ヤマハは、排気の通り道を、V 字に並んだシリンダーの内側に入れました。これで、大きさは当時の上位の 2 ストロークと並び、重さも船外機として使えるところに収まった、と物語は書いています。

そのあと、4 ストロークが、加速でも軽さでも 2 ストロークを上回るようになります。ヤマハは、遊びに使う船外機を、すべて 4 ストロークにしました。2018 年には「F425A」が出ています。排気量は 5,559cc、最大で 425 馬力です。

エンジンだけでなく、操り方も変わりました。2010 年、ヤマハはスウェーデンのボルボ・ペンタと、船を操る仕組みを共同で開発すると発表します。2012 年に出た仕組みでは、ゆっくり進むときに、一本の棒で船をどの向きにも動かしたり、回したりできます。大きな船を岸に着けるのが楽になり、船外機の大きな船を持てる人が増えた、と物語は書いています。

2019 年、ヤマハの船外機は、造った数の合計が 1,200 万台に届きました。翌 2020 年で、月に 200 台の計画で始めた最初の一台から、六十年です。物語は最後に、日本の小さな漁港のために船外機を作るところから始まった、と振り返っています。

FIGURE物語に出てくる船外機の馬力
P-3(1961 年)3
85A(1978 年)85
F225A(21 世紀の最初の年)225
F425A(2018 年)425

SOURCES出典

  1. Yamaha Motor 公式サイト「Yamaha Outboards Story」(入口のページ)
    https://global.yamaha-motor.com/business/outboards/story/(2026-10-02 確認)
  2. 同「Story」の章(最初の船外機 P-7 と P-3)
    https://global.yamaha-motor.com/business/outboards/story/development.html(2026-10-02 確認)
  3. 同「Story」の章(パキスタンへの輸出と、業務用の市場)
    https://global.yamaha-motor.com/business/outboards/story/foundation.html(2026-10-02 確認)
  4. 同「Story」の章(85A)
    https://global.yamaha-motor.com/business/outboards/story/85a.html(2026-10-02 確認)
  5. 同「Story」の章(大きい馬力と北アメリカ)
    https://global.yamaha-motor.com/business/outboards/story/large.html(2026-10-02 確認)
  6. 同「Story」の章(4 ストローク)
    https://global.yamaha-motor.com/business/outboards/story/topbrand.html(2026-10-02 確認)
  7. 同「Story」の章(F425A と操船の仕組み)
    https://global.yamaha-motor.com/business/outboards/story/reliable.html(2026-10-02 確認)
  8. 同「Story」の章(2 ストロークを続ける理由)
    https://global.yamaha-motor.com/business/outboards/story/globalbrand.html(2026-10-02 確認)
  9. Grady-White Boats 公式の 50 周年記念の本(1990 年の取り決めと F350)
    https://grady-white.files.svdcdn.com/production/Documents/gw_50thbook.pdf?dm=1764783516(2026-10-02 確認)
  10. Mercury Marine 公式サイトの記事(マーキュリーがブランズウィックの一部門であること)
    https://www.mercurymarine.com/jp/ja/lifestyle/dockline/the-lengendary-history-of-mercury-lake-x(2026-10-02 確認)

この記事は、上の資料の原文を確かめたうえで書いています。年や長さなどの数は、資料に書かれているものだけを使いました。資料どうしで書き方が違う所は、本文でそのように断っています。記事の中の社名と艇名は、各社の商標です。

WRITTEN BY山岸 勇輝Yuuki YAMAGISHI

独立研究者(Independent Researcher)。公式の資料や統計など、一次の資料にあたって書くことを続けている。船が好きで、とくにアルベマーレに思い入れがある。