要旨
論文88 は「エントロピー」という一語のもとに二つの別物(粗視化のものと地平線の面積のもの)があると書いた。本稿は第三の住所を加える:フォン・ノイマンのエントロピー $S(\rho)=-\mathrm{Tr}(\rho\ln\rho)$ である。新しい物理法則は主張しない。
第一に、これはシャノンを「量子化」したものではない。量子状態には一つの確率分布が付いていない。測定基底ごとに違う分布が出る。固有基底で測ったときのシャノン量が $S(\rho)$ に機械精度で一致し(四例とも差 $0$)、無作為な基底は上からしか近づかない(第2節)。
第二に、ユニタリ発展では一切変わらない。$4000$ 組の無作為な状態とユニタリで最大変化は $2.33\times10^{-15}$。閉じた量子系では、これは時間の矢になりえない(第3節)。
第三に、これが本稿の芯である。全体のほうが部分より小さいことがある。一重項では$S(AB)=0$ なのに $S(A)=S(B)=\ln2=0.6931471806$。古典では起こりえない。$2\times2$ の同時分布を $200000$ 個引いても $H(AB)-\max(H(A),H(B))$ は一度も負にならなかった(最小 $0.007226$)(第4節)。
第四に、したがって条件付きエントロピーが負になる。一重項で$S(A|B)=-\ln2$。同じ $200000$ 個の古典分布では最小でも $0.009555$、符号の約束すら共有していない(第5節)。
第五に、代わりに何が残るか。劣加法性と荒木=リーブの三角不等式は $20000$ 個の無作為な状態で破れゼロであり、一重項はその境界にちょうど乗っている(第6節)。
射程(何を示さないか)
本稿の射程:新しい物理法則は主張しない。フォン・ノイマンのエントロピー、劣加法性、荒木=リーブの三角不等式、条件付きエントロピーの負値はいずれも標準的である。また論文88 の内容を撤回しない。二つのエントロピーの分離はそのままで、三つ目を足すだけである。加えたのは固有基底のシャノン量が $S(\rho)$ に一致することを測ったこと、ユニタリ不変性を数で確かめたこと、古典側の不等式が破れないことを $200000$ 個の標本で確認して量子側の $-\ln2$ と対置したこと、三つのエントロピーに「動かすと動くもの」を書いたことである。
1. 記法と位置づけ
密度行列 $\rho$ に対し $S(\rho)=-\mathrm{Tr}(\rho\ln\rho)$ とする(自然対数)。二体系では $S(AB)$、$S(A)=S(\mathrm{Tr}_B\rho)$ と書き、条件付きエントロピーを $S(A|B)=S(AB)-S(B)$ で定める。
位置づけ:論文88 は粗視化エントロピーと地平線の面積エントロピーを分離し、両者を結ぶのはホログラフィック上限だけだと書いた。論文77・78 は時間の矢が粗視化に宿ることを、論文138 はユニタリと散逸の分解が非一意であることを扱った。本稿はその三つの上に、第三のエントロピーを置く。
2. シャノンを「量子化」したものではない
観察 2.1 シャノンのエントロピーには確率分布が要る。ところが量子状態には、分布が一つ付いてはいない。どの基底で測るかによって、違う分布が出る。
検算 2.2:無作為な一量子ビットの混合状態について、$20000$ 通りの基底で測った場合のシャノン量を集める。
| 例 | $S(\rho)$ | 固有基底 | $20000$ 基底の最小 | $20000$ 基底の最大 |
|---|---|---|---|---|
| 1 | $0.1343031765$ | $\mathbf{0.1343031765}$ | $0.1344243627$ | $0.6931471786$ |
| 2 | $0.1833896887$ | $\mathbf{0.1833896887}$ | $0.1835099280$ | $0.6931471806$ |
| 3 | $0.6395323229$ | $\mathbf{0.6395323229}$ | $0.6395323328$ | $0.6931471799$ |
| 4 | $0.3201588807$ | $\mathbf{0.3201588807}$ | $0.3201815245$ | $0.6931471803$ |
固有基底での値と $S(\rho)$ の差は四例とも $0$であった。(証明終)
観察 2.3 $S(\rho)$ は「測ったときのシャノン量の最小値」である。どの基底で測っても、状態が実際に持っている以上の乱雑さが報告される。最小を与えるのは固有基底だけである。
観察 2.4 したがって出発点が違う。シャノンは分布を渡されて数を返し、フォン・ノイマンは状態を渡されて分布そのものを自分で選ぶ。同じ式の形をしていても、入力が違う。
3. ユニタリ発展では一切変わらない
検算 3.1:$4$ 次元の無作為な密度行列と無作為なユニタリを $4000$ 組取り、$|S(U\rho U^\dagger)-S(\rho)|$ の最大を測る。
| 最大変化 | $\mathbf{2.33\times10^{-15}}$ |
|---|
(証明終)
観察 3.2 閉じた量子系では厳密に保存される。ゆえにフォン・ノイマンのエントロピーは、それ自体では時間の矢になりえない。矢が要るのは非ユニタリな操作、すなわち部分トレース・測定・粗視化のほうである(論文77・78・88)。
4. 芯:全体のほうが部分より小さいことがある
検算 4.1:一重項状態について
| $S(AB)$ | $\mathbf{0}$(純粋状態) |
|---|---|
| $S(A)$ | $\mathbf{0.6931471806}=\ln2$ |
| $S(B)$ | $0.6931471806$ |
(証明終)
検算 4.2:古典側で同じことが起きるかを見る。$2\times2$ の同時分布を $200000$ 個無作為に引き、$H(AB)-\max(H(A),H(B))$ の最小を測る。
| 最小値 | $\mathbf{0.007226}$ |
|---|---|
| 負になった回数 | $0$ 回 |
(証明終)
観察 4.3 古典では、全体を知ることは部分を知ることを含む。量子ではそうならない。二つを合わせた系については完全に知っていて、片方だけを見ると何も知らない、という状態が存在する。
観察 4.4 これは「量子のほうが乱雑だ」という話ではない。$S(AB)=0$ は乱雑さが皆無だということである。情報が部分にではなく相関の側に置かれている、というだけである。
5. 条件付きエントロピーが負になる
検算 5.1
| 一重項の $S(A|B)=S(AB)-S(B)$ | $0-0.6931471806=\mathbf{-0.6931471806}$ |
|---|---|
| 同じ $200000$ 個の古典分布での $H(A|B)$ の最小 | $\mathbf{0.009555}$ |
(証明終)
観察 5.2 古典の条件付きエントロピーは下から $0$ で抑えられ、量子のそれは $-\ln2$ に届く。二つは符号の約束すら共有していない。同じ記号で書かれ、同じ名前で呼ばれているが、値域が違う。
観察 5.3 「負のエントロピー」は言葉の綾ではなく、操作的な意味を持つ(量子状態併合における「将来使える資源」として読める)。ただし本稿はその解釈には立ち入らない。書けるのは、値が負になるという事実と、その住所までである。
6. 代わりに何が残るか
検算 6.1:無作為な二量子ビット状態を $20000$ 個(階数も無作為に)取り、二つの不等式の破れを数える。
| 不等式 | 破れた回数 |
|---|---|
| $S(AB)\le S(A)+S(B)$(劣加法性) | $\mathbf{0}$ |
| $|S(A)-S(B)|\le S(AB)$(荒木=リーブ) | $\mathbf{0}$ |
一重項では $S(A)+S(B)=1.386294$ に対し $S(AB)=0$、$|S(A)-S(B)|=0$ に対し $S(AB)=0$ である。(証明終)
観察 6.2 古典の不等式は弱められたのではなく、別の不等式に置き換わっている。$H(AB)\ge\max(H(A),H(B))$ の場所に座っているのは荒木=リーブの三角不等式であり、一重項はその境界にちょうど乗っている。
7. 点呼:三つのエントロピー
観察 7.1
| エントロピー | 住んでいる場所 | 動かすには | 論文 |
|---|---|---|---|
| 粗視化(ギブズ) | 観測者の解像度 | 粗視化を変える | 77・78・88 |
| 地平線の面積 | 境界の面積・次元 | 面積を変える | 73・88 |
| フォン・ノイマン | 密度行列のスペクトル | 非ユニタリな操作 | 本稿 |
観察 7.2 一語の下に三つの量がある。一つ目は観測者に、二つ目は境界に、そして三つ目は状態そのものに住んでいる。三つのうち、時間の経過で変わらないのは三つ目だけである。
観察 7.3 絡み合いエントロピーが場の理論で面積則を示すことは知られており、三つ目と二つ目のあいだに韻がある。だが本稿はそれを同根とは書かない。片方は部分系の選び方で決まり、他方は幾何が決める。論文88 が「結ぶのは上限だけ」と書いた線を、ここでも越えない。
8. 結論
- 固有基底のシャノン量が $S(\rho)$ に一致する(検算2.2)。四例とも差 $0$。
- ユニタリでは変わらない(検算3.1)。最大 $2.33\times10^{-15}$。
- 一重項で $S(AB)=0$、$S(A)=\ln2$(検算4.1)。全体のほうが小さい。
- 古典では $200000$ 個引いても一度も起きない(検算4.2)。最小 $0.007226$。
- 条件付きエントロピーは $-\ln2$ に届く(検算5.1)。古典は最小 $0.009555$。
- 劣加法性と荒木=リーブは破れゼロ(検算6.1)。一重項は境界の上。
結び:全体について完全に知っていながら、部分については何も知らない。そういう状態がある。古典の言葉では、この文は矛盾している。矛盾していないのは、情報が部分にではなく、部分と部分のあいだに置かれているからである。
参考文献
- von Neumann, J. (1927). Thermodynamik quantenmechanischer Gesamtheiten. Nachrichten von der Gesellschaft der Wissenschaften zu Göttingen.
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- Araki, H., & Lieb, E. H. (1970). Entropy inequalities. Communications in Mathematical Physics, 18(2).
- Lieb, E. H., & Ruskai, M. B. (1973). Proof of the strong subadditivity of quantum-mechanical entropy. Journal of Mathematical Physics, 14(12).
- Horodecki, M., Oppenheim, J., & Winter, A. (2005). Partial quantum information. Nature, 436.
- Nielsen, M. A., & Chuang, I. L. (2010). Quantum Computation and Quantum Information, 10th anniversary ed. Cambridge University Press.
- 山岸勇輝 (2026). ボルン則の「2」と Gleason の定理 [論文71]. Zenodo. 10.5281/zenodo.21650577
- 山岸勇輝 (2026). リューヴィルの定理と時間の矢 [論文77]. Zenodo. 10.5281/zenodo.21722473
- 山岸勇輝 (2026). 摩擦と散逸は粗視化である [論文78]. Zenodo. 10.5281/zenodo.21731937
- 山岸勇輝 (2026). 二つのエントロピーを混同しない [論文88]. Zenodo. 10.5281/zenodo.21747809
- 山岸勇輝 (2026). どこまでがハミルトニアンかは、規約である [論文138]. Zenodo. 10.5281/zenodo.22081512
- 山岸勇輝 (2026). 一つの不等式に、三つの天井がある [論文160]. Zenodo. 10.5281/zenodo.22092434
- 山岸勇輝 (2026). 「不動点」は一つの定理ではない [論文161]. Zenodo. 10.5281/zenodo.22092530
作成にあたって:本稿の着想と内容は、著者自身の考察に基づくものです。文章の構成整理や英訳、数式の確認には AI(大規模言語モデル)の助力を得ました。最終的な内容の解釈や誤りがあれば、それらはすべて著者の責に帰します。お気づきの点があれば、ご教示いただければ幸いです。
書誌
山岸勇輝(2026)「全体のほうが、部分より知られていないことがある」[論文162]. Zenodo.
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山岸勇輝 (2026). 全体のほうが、部分より知られていないことがある [論文162]. YOI: https://www.yamagishiyuuki.com/yoi/162 ・ DOI: 10.5281/zenodo.22092568
Yamagishi, Y. (2026). The Whole Can Be Better Known Than Its Parts [Paper 162]. YOI: https://www.yamagishiyuuki.com/yoi/162; DOI: 10.5281/zenodo.22092568
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