【論文136】等式は厳密でも、平均は裾が握っている

要旨

ジャルジンスキー等式 $\langle e^{-\beta W}\rangle=e^{-\beta\Delta F}$ は、どれだけ激しく駆動しても成り立つ厳密な等式である。本稿はこの等式が何を含意し、そして何を含意しないかを書く。新しい数学定理も新しい物理法則も主張しない。

第一に、第二法則はこの等式のイェンセン系である。$e^{x}$ が凸であることから $\langle e^{-\beta W}\rangle\ge e^{-\beta\langle W\rangle}$、ゆえに $\langle W\rangle\ge\Delta F$ が従う。等式のほうが情報が多く、不等式はその一部にすぎない(第3節)。

第二に、数値で確かめた。引きずられる調和トラップを過減衰ランジュヴァンで $20$ 万本走らせ、$\Delta F=0$ の設定で $\langle e^{-W}\rangle$ を測ると、引く速さ $v=0.5,1,2$ で $0.9996$、$0.9986$、$0.9984$ を得た。閉じた形 $\langle W\rangle=v^2(T-1+e^{-T})$ とも$0.7\%$ 以内で一致する(第2節)。

第三に、揺らぎと散逸を等式が結んでいる。測定値は $\langle W\rangle$ と $\sigma^2/2$ が一致する。$v=4$ で $5.885$ 対 $5.865$。仕事分布がガウス型なら、等式は $\sigma^2=2k_BT\,W_{\rm diss}$ を強制する。揺動散逸関係が、等式の帰結として出てくる(第4節)。

第四に、これが本稿の芯である。指数平均は裾が握っている。$W<\Delta F$ の経路(局所的に第二法則を破る経路)が平均に占める割合を測ると、$v=0.5$ では経路の $41.5\%$ が平均の $58.5\%$ を運ぶだけだが、$v=4$ では経路のわずか $4.3\%$ が平均の $95.2\%$ を運ぶ。強く駆動するほど、稀な経路がすべてを握る(第5節)。

第五に、ゆえに厳密であることと測れることは別である。$v=4$ では $20$ 万本を使っても標本値は $0.8935$ にしかならず、$10$ 万本の部分標本での中央値は $0.904$、$1000$ 本なら $0.622$ である。これは等式の破れではなく、推定量の破れである。真であることと、測れることは、別の性質である(第6節)。

射程(何を示さないか)

本稿の射程:新しい数学定理も新しい物理法則も主張しない。ジャルジンスキー(1997)、クルックス(1999)、関本の確率エネルギー論、指数平均の収束問題はいずれも標準的である。本稿が加えるのは、第二法則を系として位置づけたこと、裾の寄与を数値で測ったこと、厳密性と可測性を分けたこと、三つの言明を強さの階段に並べたことだけである。第二法則が破れるとは言わない(破れない)。

1. 記法と位置づけ

制御母数 $\lambda$ を有限速度で動かす過程を考え、その仕事を $W$、始端と終端の平衡自由エネルギーの差を $\Delta F$ と書く。逆温度を $\beta=1/(k_BT)$ とする。ジャルジンスキー等式は
$$ \bigl\langle e^{-\beta W}\bigr\rangle=e^{-\beta\Delta F} \tag{1} $$
である。平均は同じ手順を繰り返したときの経路にわたる平均である。

重要な注意:$\Delta F$ は終端の母数における平衡状態の自由エネルギーである。過程の終わりに系が平衡にある必要はない。非平衡の測定が平衡量を与える、というのが等式の眼目であり、ここを取り違えやすい。

位置づけ:既存の定理を並べ、その射程を書く。新しい定理は主張しない。論文17 は住所を書いて初めて検査可能になると述べた。

2. 等式は、どれだけ激しく駆動しても厳密である

設定 2.1:$k_BT=\gamma=k=1$ とし、調和トラップの中心を一定速度 $v$ で時間 $T=1$ だけ引く。トラップの形は変わらないので $\Delta F=0$ が厳密であり、(1) は $\langle e^{-W}\rangle=1$ と読める。過減衰ランジュヴァン方程式を $20$ 万本、$2000$ 刻みで走らせた。

検算 2.2

$v$ $\langle W\rangle$ $\sigma^2$ $\sigma^2/2$ $\langle e^{-W}\rangle$
0.5 0.09264 0.18439 0.09219 0.99957
1.0 0.36828 0.73450 0.36725 0.99860
2.0 1.46915 2.94712 1.47356 0.99838
4.0 5.88549 11.72969 5.86485 0.89350

検算 2.3(閉じた形との照合):この系は厳密に解ける。$\langle W\rangle=v^2(T-1+e^{-T})$、$\sigma^2=2k_BT\langle W\rangle$ であり、仕事分布はガウス型である。本稿の値との差は$\langle W\rangle$ で $0.7\%$ 以内、$\sigma^2$ で $0.4\%$ 以内である。(証明終)

観察 2.4 (最後の行について) $v=4$ の $0.89350$ は等式の破れではない。閉じた形に代入すれば $\langle e^{-W}\rangle=e^{-\langle W\rangle+\sigma^2/2}=e^{0}=1$ がどの $v$ でも厳密に成り立つ。崩れているのは推定量である(第6節)。

3. 第二法則は、イェンセンの系である

観察 3.1 (導出) $e^{x}$ は凸だから、イェンセンの不等式により
$$ \bigl\langle e^{-\beta W}\bigr\rangle\;\ge\;e^{-\beta\langle W\rangle}. $$
(1) と併せれば $e^{-\beta\Delta F}\ge e^{-\beta\langle W\rangle}$、すなわち
$$ \langle W\rangle\;\ge\;\Delta F $$、これが第二法則である。(証明終)

観察 3.2 (強さの差) 等式は不等式より多くを述べている。イェンセンの不等式は分布の平均しか使わない。分布の形を捨てている。等式は形を全部使う。第二法則は、その情報を捨てたあとに残るものである。

観察 3.3 (体系の中での位置) 論文126 は存在定理は存在しか与えないと述べ、論文135 は二つの美点は互いを排除しうると述べた。ここでは逆向きの関係である。強い言明から弱い言明が落ちてくる。系であることを書かないと、二つが対等な法則に見えてしまう。

4. 揺らぎと散逸は、等式が結んでいる

観察 4.1 検算2.2 の表で $\langle W\rangle$ と $\sigma^2/2$ が一致している。$v=4$ では $5.88549$ 対 $5.86485$ である。

観察 4.2 (なぜ一致するのか) 仕事分布がガウス型 $N(\mu,\sigma^2)$ ならば $\langle e^{-\beta W}\rangle=e^{-\beta\mu+\beta^2\sigma^2/2}$ である。これが $e^{-\beta\Delta F}$ に等しいことを要求すると
$$ \sigma^2=\frac{2}{\beta}\,(\mu-\Delta F)=2k_BT\,W_{\rm diss} $$
が強制される。揺らぎの大きさと散逸の大きさが結ばれる。揺動散逸関係が、等式の帰結として出てくる(論文78)。

観察 4.3 (ただし条件つきである) この形はガウス型のときにだけ成り立つ。一般には等式のほうが広く、揺動散逸関係はその線形応答の場合である。同じ内容だと思ってはならない。

5. 平均は、裾が握っている

検算 5.1(誰が平均を運んでいるか):$W<\Delta F$ の経路、すなわち局所的に第二法則を破る経路が、指数平均 $\langle e^{-W}\rangle$ に占める割合を測った。

$v$ その経路の割合 平均に占める寄与 比
0.5 0.4147 0.5846 1.4 倍
1.0 0.3340 0.6654 2.0 倍
2.0 0.1963 0.8042 4.1 倍
4.0 0.0426 0.9517 22.3 倍

$v=4$ では、経路のわずか $4.3\%$ が平均の $95.2\%$ を運んでいる。(証明終)

観察 5.2 (何が起きているか) $e^{-\beta W}$ は$W$ が小さいほど大きい。したがって指数平均は左の裾に重みを置く。強く駆動するほど左の裾は遠ざかり、稀になり、そして重くなる。

観察 5.3 (第二法則との関係) $W<\Delta F$ の経路は「第二法則を破っている」。個々の経路については破れうる。破れないのは平均である。そして等式が成り立つためには、その破れが必要である。破れが無ければ $\langle e^{-\beta W}\rangle$ は $e^{-\beta\Delta F}$ に届かない。

これは論文132 が「平均リターン」について述べたことと同じ形である。裾が厚いとき、平均は「よくある結果」を表さない。ここでは平均そのものが裾で作られている。

6. 厳密であることと、測れることは別である

検算 6.1(推定量の偏り):$v=4$ の標本から $N$ 本を取って $\langle e^{-W}\rangle$ を推定し、$200$ 回の中央値をとった。

$N$ 推定値の中央値 真値からの不足
10 0.0718 92.8%
100 0.3077 69.2%
1000 0.6225 37.8%
10000 0.7903 21.0%
100000 0.9039 9.6%

$10$ 万本でもまだ $1$ 割足りない。(証明終)

観察 6.2 (偏りの向き) 推定値は常に下から近づく。標本が稀な左の裾を含んでいないあいだ、平均は小さく出る。必要な標本数は散逸とともに指数的に増える。

観察 6.3 (これが本稿の要点である) 等式は厳密である。推定量はほとんど使えない。真であることと、測れることは別の性質である。そして表の $0.89350$ を見て「等式が破れた」と言ってはならない。破れているのは、こちらの数え方のほうである。

論文135 と同じ形である。そこでは体積とエネルギーが互いを排除した。ここでは厳密性と可測性が離れている。

7. 強さの階段

観察 7.1 (三段) 

言明 何を述べるか 強さ
クルックスの定理 順逆の仕事分布の比 最も強い
ジャルジンスキー等式 指数平均の値 中間(積分すれば出る)
第二法則 平均の不等号 最も弱い(イェンセン)

観察 7.2 (落ちていく情報) クルックスは分布の形を全部述べる。ジャルジンスキーはそれを一つの数に潰す。第二法則はその数を不等号に潰す。一段下りるたびに情報が落ちる。そして下の段は上の段の系であって、独立な法則ではない。

観察 7.3 (仕事の定義について) $W$ が何を指すかは、確率過程の枠組みでは規約を含む(関本の確率エネルギー論、包含仕事と排他仕事)。$\Delta F$ は規約に依らないが、$W$ の定義は書かねばならない(論文95)。

8. 結論

  1. 等式は厳密である(検算2.2・2.3)。閉じた形との差は $\langle W\rangle$ で $0.7\%$ 以内、$\sigma^2$ で $0.4\%$ 以内。どれだけ激しく駆動しても成り立つ。
  2. 第二法則はイェンセンの系である(観察3.1)。等式のほうが情報が多く、不等式は分布の形を捨てたあとに残るものである。
  3. 揺動散逸関係は等式の帰結である(観察4.2)。ガウス型なら $\sigma^2=2k_BT\,W_{\rm diss}$ が強制される($v=4$ で $5.885$ 対 $5.865$)。ただしガウス型のときだけである。
  4. 平均は裾が握っている(検算5.1)。$v=4$ では経路の $4.3\%$ が平均の $95.2\%$。局所的に第二法則を破る経路が無ければ、等式は成り立たない。
  5. 厳密であることと測れることは別である(検算6.1)。$10$ 万本でも $9.6\%$ 足りない。$0.89350$ は等式の破れではなく推定量の破れである。
  6. 三つの言明は強さの階段をなす(観察7.1)。クルックス→ジャルジンスキー→第二法則。下の段は上の段の系である。

結び:第二法則は、より強い等式から情報を捨てて得られる。そしてその等式を支えているのは、第二法則を局所的に破る稀な経路である。数え上げられないほど稀なものが、平均を握っている。厳密な式を手にしても、測れるとは限らない。

参考文献

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  16. 山岸勇輝 (2026). 極限としてのモジュール [論文113]. Zenodo. 10.5281/zenodo.21962996
  17. 山岸勇輝 (2026). 尺度不変性は四つの根を持つ [論文117]. Zenodo. 10.5281/zenodo.22005515
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  19. 山岸勇輝 (2026). フィッシャー計量が一意なのは、古典の側だけである [論文133]. Zenodo. 10.5281/zenodo.22080550
  20. 山岸勇輝 (2026). 体積か、エネルギーか、両方は取れない [論文135]. Zenodo. 10.5281/zenodo.22081063

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書誌

山岸勇輝(2026)「等式は厳密でも、平均は裾が握っている」[論文136]. Zenodo.
DOI: 10.5281/zenodo.22081230

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引用するとき

山岸勇輝 (2026). 等式は厳密でも、平均は裾が握っている [論文136]. YOI: https://www.yamagishiyuuki.com/yoi/136 ・ DOI: 10.5281/zenodo.22081230

Yamagishi, Y. (2026). The Equality Is Exact, and the Average Is Held by the Tail [Paper 136]. YOI: https://www.yamagishiyuuki.com/yoi/136; DOI: 10.5281/zenodo.22081230

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