要旨
「対角化できる」ははいかいいえで答えられる問いである。本稿はその答が何を保証していないかを数で書く。新しい数学定理も新しい法則も主張しない。
第一に、法則は $\varepsilon^{1/n}$ である。$n\times n$ のジョルダン細胞の隅に $10^{-16}$ を置くと、固有値の大きさは $n=4$ で $10^{-4}$、$n=10$ で $0.0251188643151$、$\mathbf{n=20}$ で $\mathbf{0.158489319247}$ になった。予言との比はどれも $1.0000000000$(第2節)。
第二に、固有値は円周上に等間隔で並ぶ。$n=12$ では半径が全部 $0.0464158883361$ で一致し、角の間隔は $0.52359878$、すなわち $2\pi/12$ である(第3節)。
第三に、これが本稿の芯である。同じ大きさの無作為な摂動を与えると、ジョルダン細胞は $n=20$ で $\mathbf{0.14973076}$ 動くのに、よく離れた対角行列は $6.22\times10^{-15}$ しか動かない。同じ乱れに対して$10^{15}$ 倍の違いである(第4節)。
第四に、「はい/いいえ」は実は連続量である。固有値が $\delta$ だけ離れた $2\times2$ 行列はどの $\delta$ でも対角化できるのに、固有ベクトルの条件数は $\delta=10^{-9}$ で $\mathbf{2\times10^{9}}$ に達する(第5節)。
第五に、浮動小数点の中にジョルダン細胞は現れない。$10^{-16}$ の無作為な乱れを加えると、$n=5,10,20$ のいずれでも二百回とも $n$ 個の相異なる固有値が出た(第7節)。
射程(何を示さないか)
新しい数学定理も新しい法則も主張しない。ジョルダン標準形、ウィルキンソンによる固有値の摂動解析、擬スペクトルは、いずれも標準的である。数値計算法を提案しない。本稿は既存の道具で測るだけである。シューア分解を計算しない。安定な計算法があることは引用するにとどめる。非正規行列の一般論を展開しない。出てくるのはジョルダン細胞と $2\times2$ の族だけである。実在の応用について何も主張しない。論文219 との関係:219 では、収差の無いレンズが材料の空間の中の一点にしか無かった。本稿のジョルダン細胞も行列の空間の中の一点であり、しかも算術が決してそこに立てない。論文217 との関係:217 では、定理の真偽が $p=\infty$ で切り替わるのに効き目は連続に薄れた。ここでも同じことが起きる。加えたのは$\varepsilon^{1/n}$ 則を六つの次元で確かめて比 $1.0000000000$ を得たこと、固有値が円周上に等間隔で並ぶことを測ったこと、同じ摂動に対する動きを対角行列と較べて $10^{15}$ 倍の差を得たこと、条件数と固有値の動きを $\delta$ ごとに測ったこと、二つの領域の境目が $\varepsilon=\delta^2$ であることを見たこと、二百回の試行でジョルダン細胞が一度も現れないことを数えたこと、擬スペクトルの半径が $\varepsilon^{1/n}$ に一致することを確かめたことである。
1. 記法と位置づけ
$n\times n$ のジョルダン細胞とは、対角のすぐ上に $1$ が並び、他がすべて $0$ の行列である。固有値は $0$ ただ一つで、重複度は $n$、固有ベクトルは一本しかない。以下 $\varepsilon=10^{-16}$ とする(倍精度で $1$ の隣にある数との差の程度である)。
位置づけ:論文217 では、中点の一意性が $p=\infty$ で切り替わるのに柔らかさは段階的であった。論文219 では、完全なレンズが一点にしか無かった。本稿はその二つが同時に起きる場所である。
2. 法則:$\varepsilon$ の $n$ 乗根だけ動く
検算 2.1:ジョルダン細胞の左下隅に $\varepsilon=10^{-16}$ を置く。
| $n$ | 固有値の大きさ(最大) | $\varepsilon^{1/n}$ | 比 |
|---|---|---|---|
| $2$ | $10^{-8}$ | $10^{-8}$ | $1.0000000000$ |
| $4$ | $10^{-4}$ | $10^{-4}$ | $1.0000000000$ |
| $8$ | $0.01$ | $0.01$ | $1.0000000000$ |
| $10$ | $0.0251188643151$ | $0.0251188643151$ | $1.0000000000$ |
| $16$ | $0.1$ | $0.1$ | $1.0000000000$ |
| $20$ | $\mathbf{0.158489319247}$ | $0.158489319246$ | $1.0000000000$ |
観察 2.2 十六桁目をひとつ変えただけで、二十次の行列の固有値が $\mathbf{0.16}$ 動く。$\varepsilon$ 自身の $10^{15}$ 倍である。「近い行列は近い固有値を持つ」という言い方は、ここでは成り立たない。
3. しかも、円周上に等間隔で散る
検算 3.1:$n=12$ で固有値の半径と偏角を測る。
| 測ったもの | 値 |
|---|---|
| 半径(最小から最大まで) | $0.0464158883361$ から $0.0464158883361$ |
| 角の間隔(最小・最大) | $0.52359878$ と $0.52359878$ |
| $2\pi/12$ | $0.52359878$ |
観察 3.2 十二個の固有値は $\varepsilon$ の十二乗根であり、円周上に完全に等間隔で並ぶ。重複度 $n$ の一つの固有値が、$n$ 個の単純な固有値に化けた。そしてどれも本物でない:もとの行列の固有値は $0$ 一つだけである。
4. 芯:同じ摂動で、対角化できる行列は $10^{15}$ 倍動かない
検算 4.1:ノルムが $\varepsilon$ の無作為な摂動を二十回ずつ与える。
| 行列 | $n$ | 動きの最大 | 動き $\div\ \varepsilon$ |
|---|---|---|---|
| ジョルダン細胞 | $10$ | $0.02216382$ | $2.22\times10^{14}$ |
| 対角(よく離れている) | $10$ | $4.44\times10^{-15}$ | $44.4$ |
| ジョルダン細胞 | $20$ | $\mathbf{0.14973076}$ | $\mathbf{1.50\times10^{15}}$ |
| 対角(よく離れている) | $20$ | $\mathbf{6.22\times10^{-15}}$ | $\mathbf{62.2}$ |
($n=20$ での $\varepsilon^{1/n}$ は $0.15848932$。)
観察 4.2 まったく同じ大きさの乱れに対して、片方は $6\times10^{-15}$ しか動かず、もう片方は $0.15$ 動く。$\mathbf{10^{15}}$ 倍の差である。行列の大きさも摂動の大きさも同じで、違うのは固有ベクトルが基底をなすかどうかだけである。
5. 「はい/いいえ」は、実は連続量である
$2\times2$ 行列 $A(\delta)$ を、$(1,2)$ 成分が $1$、$(2,2)$ 成分が $\delta$、残る二つが $0$ であるものとする。固有値は $0$ と $\delta$ だから、$\delta\neq0$ である限り対角化できる。
検算 5.1:
| $\delta$ | 固有ベクトルの条件数 | $\varepsilon$ による動き |
|---|---|---|
| $10^{-1}$ | $20.0499$ | $9.99\times10^{-16}$ |
| $10^{-3}$ | $2000$ | $10^{-13}$ |
| $10^{-5}$ | $200000$ | $10^{-11}$ |
| $10^{-7}$ | $2\times10^{7}$ | $9.90\times10^{-10}$ |
| $10^{-9}$ | $\mathbf{2\times10^{9}}$ | $\mathbf{9.51\times10^{-9}}$ |
観察 5.2 「対角化できる」はどの $\delta$ でも真であり、その基底はいくらでも悪くなる。語ははいかいいえで、語が指しているものは連続である。$\delta=0$ で切り替わるのは語のほうだけで、数のほうは何も切り替わらない。
6. 二つの領域と、その境目
検算 6.1:同じ $A(\delta)$ で、摂動 $\varepsilon$ を変えて動きを測る。
| $\delta$ | $\varepsilon$ | 動き | $\varepsilon/\delta$ | $\sqrt{\varepsilon}$ |
|---|---|---|---|---|
| $10^{-3}$ | $10^{-14}$ | $10^{-11}$ | $10^{-11}$ | $10^{-7}$ |
| $10^{-3}$ | $10^{-8}$ | $9.90\times10^{-6}$ | $10^{-5}$ | $10^{-4}$ |
| $10^{-3}$ | $10^{-6}$ | $6.18\times10^{-4}$ | $10^{-3}$ | $10^{-3}$ |
| $10^{-5}$ | $10^{-14}$ | $10^{-9}$ | $10^{-9}$ | $10^{-7}$ |
| $10^{-5}$ | $10^{-10}$ | $6.18\times10^{-6}$ | $10^{-5}$ | $10^{-5}$ |
観察 6.2 摂動が小さいうちは動きは $\varepsilon/\delta$ に従い、$\varepsilon$ が $\delta^2$ を越えると $\sqrt{\varepsilon}$ に乗り換える。境目は $\varepsilon=\delta^2$ である。そして乗り換えは滑らかであり、行列が対角化可能でなくなる瞬間は無い。論文217 で $p$ を大きくしたときに起きたことと、同じ形である。
7. 浮動小数点の中に、ジョルダン細胞は現れない
検算 7.1:ジョルダン細胞に $\varepsilon$ の大きさの無作為な行列を足し、相異なる固有値の個数を数える(各 $200$ 回)。
| $n$ | 相異なる固有値の個数 | 何回中 |
|---|---|---|
| $5$ | つねに $5$ | $200/200$ |
| $10$ | つねに $10$ | $200/200$ |
| $20$ | つねに $20$ | $200/200$ |
観察 7.2 一度も重複が残らない。固有値が重なる行列は測度零の集合であり、丸めは必ずその外へ押し出す。ゆえに「この行列はジョルダン細胞である」は、計算では決して確かめられない。論文219 で完全なレンズが材料の空間の一点にしか無かったのと同じで、ここでは行列の空間の一点であり、しかも算術がそこに立てない。
8. 正直な対象:擬スペクトル/分離子と柵
固有値のかわりに、$zI-J$ の最小特異値が $\varepsilon$ を下回る $z$ の集合(擬スペクトル)を見る。
検算 8.1:その半径。
| $n$ | 擬スペクトルの半径 | $\varepsilon^{1/n}$ | 比 |
|---|---|---|---|
| $4$ | $0.0001000000003$ | $0.0001$ | $1.000000$ |
| $8$ | $0.01000012501$ | $0.01$ | $1.000013$ |
| $12$ | $0.04642423441$ | $0.04641588834$ | $1.000180$ |
| $16$ | $0.1000629138$ | $0.1$ | $1.000629$ |
観察 8.2 擬スペクトルの半径は、固有値が実際に動いた半径と一致する。スペクトルは「一点」と言い、擬スペクトルは「円板」と言う。そして算術に見えるのは円板のほうである。
観察 8.3 (分離子) 「固有値」を分けているのはどの行列について言うかである。その行列ちょうどについてか、その近くのすべてについてか。前者は $0$ 一つ、後者は半径 $\varepsilon^{1/n}$ の円板であり、両方とも正しい。
観察 8.4 (柵) 「近い行列は近い固有値を持つ」という言い方を囲っている柵は、固有ベクトルが基底をなすことである。柵の外では偽になり、しかも$10^{15}$ 倍偽になる。論文220 と同じことが起きている:「対角化できるか」という検査は通ってしまうのに、通ったことは何も保証していない。保証するのは条件数という、検査に現れない量である。
9. 点呼と結び
本稿が測ったことを並べる。
- 法則は $\varepsilon^{1/n}$(検算2.1):比は六つの次元すべてで $1.0000000000$。
- 円周上に等間隔(検算3.1):$2\pi/12=0.52359878$。
- 同じ摂動で $10^{15}$ 倍の差(検算4.1):$0.14973076$ 対 $6.22\times10^{-15}$。
- はい/いいえは連続量(検算5.1):条件数 $2\times10^{9}$。
- 境目は $\varepsilon=\delta^2$(検算6.1):乗り換えは滑らか。
- ジョルダン細胞は現れない(検算7.1):$200/200$ で $n$ 個。
- 擬スペクトルが本当の半径(検算8.1):$n=4$ で六桁一致。
結び:二十次のジョルダン細胞の固有値は $0$ ただ一つである。これは完全に正しい。そして最後の桁を一つ変えると、その固有値は半径 $0.16$ の円周に散る。これも完全に正しい。二つは矛盾していない:前者はその行列ちょうどについての言明であり、後者はその近くのすべての行列についての言明である。困るのは、測って得た行列がどちらであるかを、こちらが決して知らないことである。「対角化できる」という答は、どんな計算にも耐えるという意味を一切含んでいなかった。その意味を担っているのは、答のどこにも書かれていない条件数である。
参考文献
- Jordan, C. (1870). Traité des substitutions et des équations algébriques. Paris: Gauthier-Villars.
- Wilkinson, J. H. (1965). The Algebraic Eigenvalue Problem. Oxford: Clarendon Press.
- Golub, G. H., Wilkinson, J. H. (1976). Ill-conditioned eigensystems and the computation of the Jordan canonical form. SIAM Review, 18.
- Demmel, J. W. (1997). Applied Numerical Linear Algebra. Philadelphia: SIAM.
- Higham, N. J. (2002). Accuracy and Stability of Numerical Algorithms. Second edition. Philadelphia: SIAM.
- Trefethen, L. N., Embree, M. (2005). Spectra and Pseudospectra. Princeton: Princeton University Press.
- 山岸勇輝 (2026). 量化子の順序が、中身のすべてである [論文177]. Zenodo. 10.5281/zenodo.22098103
- 山岸勇輝 (2026). 同じ列が、零へも無限へも行く [論文215]. Zenodo. 10.5281/zenodo.22119477
- 山岸勇輝 (2026). 近づいているのに、一歩も近づいていない [論文216]. Zenodo. 10.5281/zenodo.22119579
- 山岸勇輝 (2026). 距離だけを守れと言うと、直線性まで守ってしまう [論文217]. Zenodo. 10.5281/zenodo.22119628
- 山岸勇輝 (2026). 平らな板が、焦点を結ぶ [論文219]. Zenodo. 10.5281/zenodo.22119788
- 山岸勇輝 (2026). 「独立」は四つあり、たがいに何も言わない [論文220]. Zenodo. 10.5281/zenodo.22119838
作成にあたって:本稿の着想と内容は、著者自身の考察に基づくものです。文章の構成整理や英訳、数式の確認には AI(大規模言語モデル)の助力を得ました。最終的な内容の解釈や誤りがあれば、それらはすべて著者の責に帰します。お気づきの点があれば、ご教示いただければ幸いです。
書誌
山岸勇輝(2026)「最後の桁を一つ変えると、固有値が 0.16 動く」[論文221]. Zenodo.
DOI: 10.5281/zenodo.22120012
日付の証拠(OpenTimestamps):日本語版の .ots・英語版の .ots・SHA256SUMS
予備の置き場所(ミラー。中身は上と同じです):PDF 日本語・PDF English・SHA256SUMS
住所:https://www.yamagishiyuuki.com/yoi/221・DOI 10.5281/zenodo.22120012・CC BY 4.0・プレプリント(査読を経ていません)・ORCID 0009-0006-8587-3450
引用するとき
山岸勇輝 (2026). 最後の桁を一つ変えると、固有値が 0.16 動く [論文221]. YOI: https://www.yamagishiyuuki.com/yoi/221 ・ DOI: 10.5281/zenodo.22120012
Yamagishi, Y. (2026). Change the Last Bit and an Eigenvalue Moves by 0.16 [Paper 221]. YOI: https://www.yamagishiyuuki.com/yoi/221; DOI: 10.5281/zenodo.22120012
@misc{yamagishi2026yoi221,
author = {Yamagishi, Yuuki},
title = {Change the Last Bit and an Eigenvalue Moves by 0.16},
year = {2026},
howpublished = {YOI: https://www.yamagishiyuuki.com/yoi/221},
doi = {10.5281/zenodo.22120012},
note = {Preprint, edition 1}
}
指紋(SHA-256)と確かめ方
ef8fb88627185b826edb4b379fb383cfd3d6528fe683fccd1ca2d519223c4882 yamagishi_yoi221_v1_jp.pdf557477c4a86b0f70bfbf42918a69ca5ff84e6a482dc4db54ae63234025741aa8 yamagishi_yoi221_v1_en.pdfPDF と .ots を同じ場所に保存し、opentimestamps.org に .ots、続けて PDF を落とすと、記録された日時が表示されます。PDF が 1 バイトでも変わっていれば通りません。