【論文263】「定常」と「平衡」は別物であり、詳細つりあいは十分条件にすぎない

要旨

分布がもう動かないとき、その系は「落ち着いた」と言われる。本稿が問うのは、何が落ち着いたのかである。答は、分布だけである。確率は輪を回り続けることがあり、それでも分布は一つも動かない。詳細つりあいは定常性の十分条件であって、必要条件ではない。新しい数学定理も新しい法則も主張しない。

第一に、三状態の輪を作る。右回りに $0.5$、左回りに $0.2$、留まる $0.3$ とする。一様分布は流入 $\mathbf{0.233333}$、流出 $\mathbf{0.233333}$ で、定常である(第2節)。

第二に、これが本稿の芯である。詳細つりあいは $\pi_iP_{ij}=\pi_jP_{ji}$ を要求するが、ここでは $\mathbf{0.166667}$ と $\mathbf{0.066667}$ で一致しない。定常なのに詳細つりあいが破れている(第3節)。

第三に、環流が残る。$J=(p-q)/3=\mathbf{0.100000}$ が毎ステップ流れ続ける。分布は動かないのに、確率は回っている(第3節)。

第四に、時間発展させても消えない。一様から始めて $1000$ ステップ進めても $0.3333333333$ のまま、環流も $0.100000$ のままである(第4節)。

第五に、偏った初期分布からも同じ場所に落ちる。$20$ ステップで一様に落ち着くが、そこでも環流は $0.100000$ のままである。緩和したのは分布であって、流れではない(第4節)。

第六に、だから詳細つりあいは要請ではない。$p=q$ にすれば詳細つりあいは戻るが、それはもっと強い条件を課しただけである。定常性はそこまで求めていない(第5節)。

射程(何を示さないか)

新しい数学定理も新しい法則も主張しない。定常分布の定義、詳細つりあいが定常性の十分条件であること、非可逆マルコフ連鎖の存在は、いずれも標準的である。確率論を作らない。使うのは$3\times3$ の行列と、掛け算の繰り返しだけである。収束の速さを論じない。緩和時間もスペクトルギャップも扱わない。見るのは、落ち着いたあとに何が残るかだけである。非可逆MCMCの設計法を扱わない。詳細つりあいを外すと速くなる場合があることに触れるが、どう設計するかは扱わない。熱力学的不可逆性と混同しない。論文04・131・248 の「非可逆」は熱力学の側であり、消去や仕事の話である。本稿の可逆性は微視的な遷移確率の対称性であって、別の階層である。揺動散逸とオンサーガーに立ち入らない。論文78・89・106・136 が揺動散逸を、120・143 がオンサーガーを扱う。あちらは平衡近傍の相反性であり、本稿は微視的可逆性の条件そのものである。エルゴード性を扱わない。既刊に $9$ 件あるが、本稿は既約で非周期な有限鎖を一つ置くだけで、性質を論じない。物理系を模型化しない。三状態の輪は作った例であり、特定の物理系ではない。既刊との関係:論文143 は最小エントロピー生成が原理ではなく柵つきの定理だと示した。本稿も「原理」と呼ばれているものの身分を問うが、こちらは詳細つりあいである。論文201 は「完備」が四つの別の主張であることを数えた。本稿は「落ち着いた」が二つの別の主張であることを分ける。論文248 は悪魔の代価が誰のものかを問うた。本稿は代価を問わず、流れが残ること自体を見る。論文190 は「稀」を対数の目盛りで測った。本稿は逆に、動かない桁数で書く。加えたのは定常でありながら詳細つりあいが破れる鎖を具体的に作ったこと、環流を $0.100000$ という数として出したこと、時間発展させて分布が緩和しても環流が残ることを確かめたこと、詳細つりあいを戻す操作が「もっと強い条件を課すこと」だと書いたことである。

1. 記法と位置づけ

設定:有限個の状態を持つマルコフ連鎖を考える。分布 $\pi$ が定常であるとは、一歩進めても $\pi$ が変わらないことである。詳細つりあいとは、任意の二状態について $\pi_iP_{ij}=\pi_jP_{ji}$ が成り立つことである。

問い:この二つは同じことか。

答は、違う。詳細つりあいが成り立てば定常である。だが定常だからといって詳細つりあいが成り立つとは限らない。十分条件であって、必要条件ではない。

注意:本稿の「可逆」は遷移確率の対称性である。論文04・131・248 が扱う熱力学的な非可逆性とは別の階層であり、同じ語の別の適用先である。

2. 三状態の輪を作る

設定:状態 $1,2,3$ を輪に並べる。右回りに $p=0.5$、左回りに $q=0.2$、その場に留まる確率 $0.3$ とする。遷移行列は

$$P=\begin{pmatrix} 0.3 & 0.5 & 0.2 \\ 0.2 & 0.3 & 0.5 \\ 0.5 & 0.2 & 0.3 \end{pmatrix}$$

である。各行の和は $1$ で、各列の和も $1$ である。

検算 2.1:一様分布 $\pi=(1/3,1/3,1/3)$ について、一つの状態への流入と流出を数える。

量 値
流入 $\pi p+\pi q$ $\mathbf{0.233333}$
流出 $\pi(p+q)$ $\mathbf{0.233333}$
差 $2.8\times10^{-17}$(丸め誤差)

観察 2.2 一様分布は定常である。これは列和が $1$ であること(二重確率行列)から出ており、$p$ と $q$ の値には依らない。

3. 芯:定常なのに詳細つりあいが破れている

検算 3.1:詳細つりあい $\pi_iP_{ij}=\pi_jP_{ji}$ を、隣り合う二状態について確かめる。

辺 値
$\pi_1P_{12}=(1/3)(0.5)$ $\mathbf{0.166667}$
$\pi_2P_{21}=(1/3)(0.2)$ $\mathbf{0.066667}$
一致するか しない

観察 3.2 定常であることは第2節で確かめたのに、詳細つりあいは破れている。十分条件であって必要条件ではないという一文が、この二つの表で示されている。

検算 3.3:辺を通る正味の流れを数える。

量 値
右回りの流れ $\pi p$ $0.166667$
左回りの流れ $\pi q$ $0.066667$
正味の環流 $J=(p-q)/3$ $\mathbf{0.100000}$

観察 3.4 毎ステップ $0.100000$ の確率が、輪を一方向に回り続けている。それでも各状態の中身は $1/3$ のまま動かない。入ってくる量と出ていく量が同じだからである。

観察 3.5 分離子、何を動かすと別物になるか。確率の流れが輪を閉じるかどうかである。閉じていれば環流が残り、閉じていなければ各辺で個別に釣り合う。

4. 時間発展させても、環流は消えない

検算 4.1:一様分布から始めて進める。

ステップ 分布
$1$ $(0.3333333333, 0.3333333333, 0.3333333333)$
$10$ $(0.3333333333, 0.3333333333, 0.3333333333)$
$1000$ $(0.3333333333, 0.3333333333, 0.3333333333)$

検算 4.2:偏った分布 $(1,0,0)$ から始めて進める。

ステップ 分布 環流 $J$
$1$ $(0.300000, 0.500000, 0.200000)$ 過渡的
$5$ $(0.332630, 0.334120, 0.333250)$ 過渡的
$20$ $(0.333333, 0.333333, 0.333333)$ $\mathbf{0.100000}$
$100$ $(0.333333, 0.333333, 0.333333)$ $\mathbf{0.100000}$

観察 4.3 $20$ ステップで分布は一様に落ち着く。だが環流は $0.100000$ のままで、一つも減らない。緩和したのは分布であって、流れではない。

観察 4.4 「落ち着いた」という一語が、二つの別のことを指している。分布が動かなくなったことと、流れが止まったことである。ここでは前者だけが起きている。

5. 詳細つりあいは要請ではない

検算 5.1:$q$ を動かして、二つの条件を並べる。

$q$ 定常か 詳細つりあいか 環流 $J$
$0.0$ はい いいえ $0.166667$
$0.2$ はい いいえ $0.100000$
$0.4$ はい いいえ $0.033333$
$0.5$ はい はい $\mathbf{0.000000}$

観察 5.2 どの行も定常である。詳細つりあいが成り立つのは $p=q=0.5$ の一行だけ、定常性の集合のほうが広く、詳細つりあいはその中の一点である。

観察 5.3 $p=q$ にすれば詳細つりあいは戻る。だがそれはより強い条件を課しただけであり、定常性がそれを求めていたわけではない。論文143 が最小エントロピー生成について書いた構図と同じで、「原理」と呼ばれているものが実は選ばれた条件であった。

観察 5.4 実務への含意、MCMC が詳細つりあいを使うのは設計が楽だからであって、正しさの要件だからではない。詳細つりあいを外した非可逆な設計のほうが速い場合がある。本稿はその設計法を扱わないが、外せる余地があることは上の表が示している。

6. 点呼と結び

  1. 一様分布は定常(検算2.1):流入も流出も $0.233333$。
  2. $p,q$ に依らない(観察2.2):二重確率行列だから。
  3. 詳細つりあいは破れている(検算3.1):$0.166667$ 対 $0.066667$。
  4. 環流が残る(検算3.3):$J=(p-q)/3=0.100000$。
  5. $1000$ ステップでも動かない(検算4.1):$0.3333333333$ のまま。
  6. 偏りは $20$ ステップで消える(検算4.2):だが環流は消えない。
  7. 緩和したのは分布だけ(観察4.3):流れは $0.100000$ のまま。
  8. 定常の集合のほうが広い(検算5.1):四行すべて定常、詳細つりあいは一行だけ。
  9. 分離子は輪が閉じるか(観察3.5):閉じれば環流が残る。

結び:「落ち着いた」という一語は、二つの別のことを指していた。分布が動かなくなったことと、流れが止まったことである。三状態の輪では、分布は $1/3$ で完全に止まっているのに、$0.100000$ の確率が毎ステップ回り続けている。偏った分布から始めても $20$ ステップで一様に落ち着き、そこでも環流は一つも減らない。詳細つりあいは定常性の十分条件であって必要条件ではなく、$p=q$ にして詳細つりあいを取り戻すことは、定常性が求めていない強い条件を自分で課すことである。分けるものは一つ、止まったのが分布なのか流れなのかを書き出すこと。書き出せば、詳細つりあいを課すべき場面と、外してよい場面が分かれる。書き出さなければ、$0.100000$ が回り続けている系を「平衡に達した」と呼んでしまう。

参考文献

  1. Kolmogorov, A. N. (1936). Zur Theorie der Markoffschen Ketten. Mathematische Annalen, 112.
  2. Levin, D. A. and Peres, Y. (2017). Markov Chains and Mixing Times, 2nd edition. Providence: American Mathematical Society.
  3. Norris, J. R. (1997). Markov Chains. Cambridge: Cambridge University Press.
  4. Metropolis, N., Rosenbluth, A. W., Rosenbluth, M. N., Teller, A. H. and Teller, E. (1953). Equation of State Calculations by Fast Computing Machines. The Journal of Chemical Physics, 21(6).
  5. Diaconis, P., Holmes, S. and Neal, R. M. (2000). Analysis of a Nonreversible Markov Chain Sampler. The Annals of Applied Probability, 10(3).
  6. Zia, R. K. P. and Schmittmann, B. (2007). Probability Currents as Principal Characteristics in the Statistical Mechanics of Non-Equilibrium Steady States. Journal of Statistical Mechanics, 2007(07).
  7. 山岸勇輝 (2026). 最小エントロピー生成は、原理ではなく柵つきの定理である [論文143]. Zenodo. 10.5281/zenodo.22082367
  8. 山岸勇輝 (2026). 「稀」は、対数の目盛りで測る [論文190]. Zenodo. 10.5281/zenodo.22106182
  9. 山岸勇輝 (2026). 「完備」は四つの別の主張である [論文201]. Zenodo. 10.5281/zenodo.22109052
  10. 山岸勇輝 (2026). 「デーモンの代価」は、五人が五つの場所に置いた [論文248]. Zenodo. 10.5281/zenodo.22160169

作成にあたって:本稿の着想と内容は、著者自身の考察に基づくものです。文章の構成整理や英訳、数式の確認には AI(大規模言語モデル)の助力を得ました。最終的な内容の解釈や誤りがあれば、それらはすべて著者の責に帰します。お気づきの点があれば、ご教示いただければ幸いです。

書誌

山岸勇輝(2026)「「定常」と「平衡」は別物であり、詳細つりあいは十分条件にすぎない」[論文263]. Zenodo.
DOI: 10.5281/zenodo.22169689

YOI 263第1版・2026年8月ビットコインに記録済み

日付の証拠(OpenTimestamps):日本語版の .ots・英語版の .ots・SHA256SUMS

予備の置き場所(ミラー。中身は上と同じです):PDF 日本語・PDF English・SHA256SUMS

住所:https://www.yamagishiyuuki.com/yoi/263・DOI 10.5281/zenodo.22169689・CC BY 4.0・プレプリント(査読を経ていません)・ORCID 0009-0006-8587-3450

引用するとき

山岸勇輝 (2026). 「定常」と「平衡」は別物であり、詳細つりあいは十分条件にすぎない [論文263]. YOI: https://www.yamagishiyuuki.com/yoi/263 ・ DOI: 10.5281/zenodo.22169689

Yamagishi, Y. (2026). Stationary Is Not Equilibrium, and Detailed Balance Is Only Sufficient [Paper 263]. YOI: https://www.yamagishiyuuki.com/yoi/263; DOI: 10.5281/zenodo.22169689

@misc{yamagishi2026yoi263,
  author = {Yamagishi, Yuuki},
  title = {Stationary Is Not Equilibrium, and Detailed Balance Is Only Sufficient},
  year = {2026},
  howpublished = {YOI: https://www.yamagishiyuuki.com/yoi/263},
  doi = {10.5281/zenodo.22169689},
  note = {Preprint, edition 1}
}
指紋(SHA-256)と確かめ方
02ae86e8800f16dc82d1f7d9d546ddfd8c658d2d1904cebc40bf5cfd95292f5e yamagishi_yoi263_v1_jp.pdf
5f61446b537c1e2e8605a85b3f6944eefb92c7481fb5ba29d3e1fee72a6314a8 yamagishi_yoi263_v1_en.pdf

PDF と .ots を同じ場所に保存し、opentimestamps.org に .ots、続けて PDF を落とすと、記録された日時が表示されます。PDF が 1 バイトでも変わっていれば通りません。