【論文160】一つの不等式に、三つの天井がある

要旨

CHSH 量 $S$ には三つの上限が語られる。古典の $2$、量子の $2\sqrt2$、そして代数的な $4$。本稿はこの三つを点呼し、どれ一つとして同じものに押さえられていないことを示す。新しい物理法則は主張しない。

第一に、古典の天井は組合せ論である。局所決定的な戦略は全部で $16$ 通りしかなく、それを全数列挙すると $S$ の値は $\{-2,\dots,2\}$ に収まる(本稿で計算)。混合しても増えないので、$|S|\le2$ は符号の並べ方だけから来ている(第2節)。

第二に、量子の天井は密度行列から出る。一重項に $a=0^\circ$、$a’=90^\circ$、$b=45^\circ$、$b’=-45^\circ$ を当てると四つの相関はすべて $\mp0.7071067811865475$ で、$S=2.8284271247$、$2\sqrt2$ との差は $4.44\times10^{-16}$。状態と方向を無作為に $40000$ 通り試しても、一度も超えなかった(最大 $2.7291936631$)(第3節)。

第三に、これが本稿の芯である。量子をそこで止めているのは幾何である。一重項では $E(a,b)=-a\cdot b$ だから $S\le|b+b’|+|b-b’|$ であり、単位ベクトル二本についてこの右辺の最大は $2.8284271247$($200000$ 組で確認、直交のときに達する)。$|x|^2+|y|^2=2$ が $|x|+|y|\le2\sqrt2$ を強制する。組合せ論ではなく内積の幾何である(第4節)。

第四に、ブレーキ。$4$ を禁じているのは相対論ではない。PR 箱は $E=(1,1,1,-1)$ で$S=4$ をちょうど達成する。しかもその周辺分布は相手の設定に依らず $0.500$ のまま、PR 箱は信号を送らない(本稿で確認)。相対論は $S=4$ を許している(第5節)。

射程(何を示さないか)

本稿の射程:新しい物理法則は主張しない。ベルの不等式、CHSH、チレルソン限界、PR 箱、無信号条件はいずれも標準的である。また本稿は「なぜ自然は $2\sqrt2$ で止まるのか」に答えない。それは未解決の研究課題であり、本稿が書くのは三つの天井の住所だけである。加えたのは古典の天井を全数列挙で出したこと、量子の天井を密度行列から出し無作為探索で非超過を確かめたこと、$2\sqrt2$ の出所を内積の幾何として数で示したこと、PR 箱が無信号でありながら $4$ に届くことを確認して「相対論が止めている」という説明に柵を立てたことである。

1. 記法と位置づけ

二者がそれぞれ二つの設定を持ち、結果は $\pm1$ とする。相関を $E(x,y)$ と書き、

$$ S=E(a,b)+E(a,b’)+E(a’,b)-E(a’,b’) $$

を CHSH 量とよぶ。

位置づけ:論文68 は量子ビットがホップ写像そのものであることを、論文71 はボルン則をグリーソンの定理の下に置いた。論文112 は「枠が配られ、中では自由」を六つの別根に分け、ベルの線は譲らないと書いた。本稿はその線の上に立ち、線が何本あるかを数える。

2. 古典の天井は、符号の並べ方だけから来ている

検算 2.1:局所決定的な戦略とは、四つの符号 $A_1,A_2,B_1,B_2\in\{\pm1\}$ を先に決めておくことである。全部で $16$ 通りしかない。全数列挙すると

$S$ の取りうる値 $\{-2,\ 2\}$ を端とする集合($16$ 通りすべて)
$|S|$ の最大 $\mathbf{2}$

(証明終)

観察 2.2 混ぜても増えない。確率混合は端点の凸結合だから、最大値は端点で取られる。したがって $|S|\le2$ は、局所決定性という仮定だけから、符号を数えることで出る。住所は組合せ論である。

3. 量子の天井を、密度行列から出す

検算 3.1:一重項状態に、$a=0^\circ$、$a’=90^\circ$、$b=45^\circ$、$b’=-45^\circ$ の測定を当てる。

$E(a,b)$ $-0.7071067811865475$
$E(a,b’)$ $-0.7071067811865475$
$E(a’,b)$ $-0.7071067811865475$
$E(a’,b’)$ $+0.7071067811865475$
$S$ $\mathbf{2.8284271247}$
$2\sqrt2$ $2.8284271247$
差 $4.44\times10^{-16}$

(証明終)

検算 3.2:二量子ビットの状態と四つの測定方向をすべて無作為に取り、$40000$ 通り試す。

見つかった $|S|$ の最大 $2.7291936631$
チレルソン限界 $2\sqrt2$ $2.8284271247$
超えたか 一度もない

(証明終)

観察 3.3 無作為に取った方向は最適配置に当たりにくいので、$2.729$ にとどまった。本稿がこの試行から言うのは「超えなかった」ことだけであり、限界の証明ではない。証明は次節の幾何が与える。

4. 芯:量子をそこで止めているのは幾何である

事実 4.1:一重項では $E(a,b)=-a\cdot b$ である。したがって

$$ |S|=|a\cdot(b+b’)+a’\cdot(b-b’)|\le|b+b’|+|b-b’| . $$

検算 4.2:右辺を単位ベクトル二本について最大化する。

$200000$ 組の無作為な $(b,b’)$ での最大 $\mathbf{2.8284271247}$
直交のとき($b\cdot b’=0$) $2.8284271247$
$2\sqrt2$ $2.8284271247$

(証明終)

観察 4.3 理由は一行で書ける。$x=b+b’$、$y=b-b’$ と置くと $|x|^2+|y|^2=2(|b|^2+|b’|^2)=4$ であり、二乗和が固定された二数の和は、二つが等しいときに最大になる。よって $|x|+|y|\le2\sqrt2$。

観察 4.4 したがって $2\sqrt2$ の住所は内積である。量子の相関が単位ベクトルの内積として書けること、それだけが天井を決めている。論文68 のブロッホ球の幾何が、そのままここに出ている。古典の $2$ が符号の数え上げだったのに対し、これは長さの幾何である。別根。

5. ブレーキ:$4$ を禁じているのは相対論ではない

検算 5.1:PR 箱を $P(ab|xy)=\tfrac12$($a\oplus b=xy$ のとき)、$0$(それ以外)で定める。

$E(0,0)$ $+1$
$E(0,1)$ $+1$
$E(1,0)$ $+1$
$E(1,1)$ $-1$
$S$ $\mathbf{4}$

(証明終)

検算 5.2:この箱が信号を送るかどうかを見る。片方の周辺分布を、相手の設定ごとに書き出す。

自分の設定 $x$ 相手が $y=0$ のとき $P(a=0)$ 相手が $y=1$ のとき 一致するか
$0$ $0.500$ $0.500$ する
$1$ $0.500$ $0.500$ する

(証明終)

観察 5.3 周辺分布は相手の設定に依らない。PR 箱は信号を送らない。つまり相対論は $S=4$ を許している。「相対論があるから $2\sqrt2$ で止まる」という説明は、そこを説明していない。

観察 5.4 止めているのは状態空間のほうである。局所性はすでに $S>2$ の時点で手放されており、無信号は $4$ まで許す。残っているのは「相関が単位ベクトルの内積として書ける」という一点だけであり、それが $2\sqrt2$ を出す。

観察 5.5 ただし本稿は「なぜ自然がその状態空間を選んだのか」には答えない。情報因果律などの原理からチレルソン限界を導こうとする研究は続いているが、本稿はそこに立ち入らない。書けるのは住所までである(論文112 と同じ姿勢)。

6. 点呼:三つの天井

観察 6.1 

天井 何が押さえているか 動かすには 住所
$2$ 局所決定性 非局所を許す 組合せ論
$2\sqrt2=2.8284271$ 量子の状態空間 内積の幾何を替える 幾何(論文68)
$4$ $\pm1$ という結果の集合 結果の値域を替える 算術

観察 6.2 一つの不等式に三つの天井があり、どれ一つとして同じものに押さえられていない。「ベルの不等式が破れた」という一文は、一枚目の天井についてだけの言明である。

観察 6.3 そして $2$ と $\sqrt2$ は、論文157 が数えた五つの $2$ のどれとも別である。ここでの $2$ は符号の並べ方から、$\sqrt2$ は二乗和が固定された二数の和から来ている。一語の点呼は、まだ終わっていない。

7. 結論

  1. 古典の天井は全数列挙で $2$ である(検算2.1)。$16$ 通りすべて。
  2. 量子の天井は $2.8284271247$ である(検算3.1)。$2\sqrt2$ との差 $4.44\times10^{-16}$。
  3. 無作為 $40000$ 通りで一度も超えなかった(検算3.2)。ただしこれは証明ではない。
  4. $2\sqrt2$ の出所は内積の幾何である(検算4.2・観察4.3)。
  5. PR 箱は $S=4$ に達し、しかも信号を送らない(検算5.1・5.2)。
  6. 三つの天井は三つとも別の根に押さえられている(観察6.1)。

結び:天井が三枚あることに気づくと、「破れた」という言葉が急に不正確になる。破れたのは一枚目である。二枚目はまだ一度も破られておらず、三枚目は相対論の許すところに、誰も住んでいないまま空いている。

参考文献

  1. Bell, J. S. (1964). On the Einstein Podolsky Rosen paradox. Physics Physique Fizika, 1(3).
  2. Clauser, J. F., Horne, M. A., Shimony, A., & Holt, R. A. (1969). Proposed experiment to test local hidden-variable theories. Physical Review Letters, 23(15).
  3. Cirel’son, B. S. (1980). Quantum generalizations of Bell’s inequality. Letters in Mathematical Physics, 4(2).
  4. Popescu, S., & Rohrlich, D. (1994). Quantum nonlocality as an axiom. Foundations of Physics, 24(3).
  5. Pawłowski, M., Paterek, T., Kaszlikowski, D., Scarani, V., Winter, A., & Żukowski, M. (2009). Information causality as a physical principle. Nature, 461.
  6. Hensen, B., et al. (2015). Loophole-free Bell inequality violation using electron spins separated by 1.3 kilometres. Nature, 526.
  7. 山岸勇輝 (2026). Hopf 束としての量子ビット [論文68]. Zenodo. 10.5281/zenodo.21642238
  8. 山岸勇輝 (2026). ボルン則の「2」と Gleason の定理 [論文71]. Zenodo. 10.5281/zenodo.21650577
  9. 山岸勇輝 (2026). 「枠が配られ、中では自由」は、六つの別の話だった [論文112]. Zenodo. 10.5281/zenodo.21962834
  10. 山岸勇輝 (2026). $\hbar$ は、不等式の数学の側には無い [論文129]. Zenodo. 10.5281/zenodo.22079681
  11. 山岸勇輝 (2026). どこまでがハミルトニアンかは、規約である [論文138]. Zenodo. 10.5281/zenodo.22081512
  12. 山岸勇輝 (2026). 二乗の点呼 [論文157]. Zenodo. 10.5281/zenodo.22091931
  13. 山岸勇輝 (2026). 内から測れるものは、必ずどこかに住める [論文158]. Zenodo. 10.5281/zenodo.22092143

作成にあたって:本稿の着想と内容は、著者自身の考察に基づくものです。文章の構成整理や英訳、数式の確認には AI(大規模言語モデル)の助力を得ました。最終的な内容の解釈や誤りがあれば、それらはすべて著者の責に帰します。お気づきの点があれば、ご教示いただければ幸いです。

書誌

山岸勇輝(2026)「一つの不等式に、三つの天井がある」[論文160]. Zenodo.
DOI: 10.5281/zenodo.22092434

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引用するとき

山岸勇輝 (2026). 一つの不等式に、三つの天井がある [論文160]. YOI: https://www.yamagishiyuuki.com/yoi/160 ・ DOI: 10.5281/zenodo.22092434

Yamagishi, Y. (2026). Three Ceilings over One Inequality [Paper 160]. YOI: https://www.yamagishiyuuki.com/yoi/160; DOI: 10.5281/zenodo.22092434

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