【論文154】順序を書かない極限は、量ではない

要旨

論文113 は「モジュールは壁ではなく極限である」と書き、論文03 は $\nu\to0$ を特異極限と呼んで「収縮しない境界」を枠に加えた。本稿はその「特異」に住所を与える。二つの極限が交換しないということである。新しい数学定理も新しい物理法則も主張しない。

第一に、最小の例。$a(n,m)=n/(n+m)$ は $\lim_n\lim_m=0$、$\lim_m\lim_n=1$ である(第2節)。

第二に、最小の圏論的な例。$2\times2$ の一元集合の族で、先に和を取ってから交われば $\{a,b\}$、先に交わってから和を取れば空集合になる。和は余極限、交わりは極限であり、二つは交換しない(第3節)。

第三に、族が有向なら交換する。増大列どうしでは両者が一致する(本稿で確認)。分離子は「極限か余極限か」ではなく、添字が有向かどうかである(第4節)。

第四に、これが本稿の芯である。キュリー=ワイス磁石を有限 $N$ で厳密に(二項和と対数総和指数で)計算すると、$\beta J=2$ においてどの $N$ でも $h=0$ の磁化はぴたり $0$である。ところが $h>0$ を固定して $N$ を上げると値は $m^*=0.957504$ に登り、$N=10^4$、$h=10^{-3}$ で0.957581 に達する。すなわち $0$ と $0.957504$、「相転移は熱力学極限でだけ起きる」とは、この二つの極限が交換しないという言明にほかならない(第5節)。

第五に、左右は鏡像ではない。$\mathrm{Ab}$ において余極限は完全だが逆極限は完全でない。$p$ 進整数は連続体濃度をもち整数は可算だから $\mathbb{Z}\to\mathbb{Z}_p$ は全射でなく、その欠損が $\varprojlim^1$ である(第6節)。

射程(何を示さないか)

本稿の射程:新しい数学定理も新しい物理法則も主張しない。極限どうし・余極限どうしが交換すること、フィルター余極限が有限極限と交換すること、$\varprojlim^1$、キュリー=ワイス模型、相転移が熱力学極限に属することはいずれも標準的である。本稿が加えるのは、論文03 の「特異極限」に圏論の住所を与えたこと、交換の可否を最小の例と数で並べたこと、分離子が「有向かどうか」であると書いたことだけである。

1. 記法と位置づけ

極限を $\varprojlim$、余極限を $\varinjlim$ と書く。集合の族について、和が余極限、交わりが極限である。

位置づけ:論文152 は平方写像、論文153 は写像の個数を分離子とした。本稿の分離子は添字の有向性である。そして体系がすでに「特異」と呼んでいたものを、その言葉で書き直す。

2. 最小の例

検算 2.1:$a(n,m)=n/(n+m)$ について

$\lim_{n\to\infty}\lim_{m\to\infty}a$ $0$
$\lim_{m\to\infty}\lim_{n\to\infty}a$ $1$

(証明終)

観察 2.2 難しいことは何も起きていない。要点は、順序が言明の一部だということである。

3. 最小の圏論的な例

検算 3.1:$S_{11}=\{a\}$、$S_{12}=\{b\}$、$S_{21}=\{b\}$、$S_{22}=\{a\}$ とすると

先に $j$ で和を取り、次に $i$ で交わる $\{a,b\}$
先に $i$ で交わり、次に $j$ で和を取る 空集合

(証明終)

観察 3.2 和は余極限、交わりは極限である。二元集合が二つあれば、もう反例が作れる。「局所を集めてから制限する」と「制限してから集める」は、別の操作である。

4. 族が有向なら、交換する

検算 4.1:$A_k=\{0,\dots,k\}$、$B_k=\{3,\dots,3+k\}$ という増大列では

$(\bigcup_k A_k)\cap(\bigcup_k B_k)$ $\{3,4,5\}$
$\bigcup_k(A_k\cap B_k)$ $\{3,4,5\}$

(証明終) 一致する。

観察 4.2 分離子は「極限か余極限か」ではない。添字が有向(フィルター)であるかどうかである。フィルター余極限は有限極限と交換し、そうでなければ交換しない。第3節の反例は、添字が有向でないことだけを使っている。

5. キュリー=ワイス磁石:$0$ と $0.957504$

検算 5.1:ハミルトニアン $H=-\frac{J}{2N}\bigl(\sum_i s_i\bigr)^2-h\sum_i s_i$($s_i=\pm1$)を、二項和と対数総和指数で厳密に扱う。$\beta=1$、$J=2$(すなわち $\beta J=2>1$ で転移点より下)とすると

$N$ $h=0$ $h=10^{-4}$ $h=10^{-3}$ $h=10^{-2}$ $h=10^{-1}$
$10$ 0.000000 0.000865 0.008650 0.086265 0.685493
$10^2$ 0.000000 0.009133 0.091053 0.709827 0.964481
$10^3$ 0.000000 0.091368 0.711411 0.958265 0.966083
$10^4$ 0.000000 0.711563 0.957581 0.958466 0.966237

(証明終) 平均場方程式 $m=\tanh\bigl(\beta(Jm+h)\bigr)$ の $h=0$ における正の解は $m^*=0.957504$ である(本稿で反復により算出)。

観察 5.2 (表を二通りに読む) 

順序 値 理由
$N$ を上げてから $h\to0$ $0.957504$ $h>0$ の列が $m^*$ へ登る
$h\to0$ にしてから $N$ を上げる $0$ $s\mapsto-s$ の対称性でどの $N$ でも $0$

観察 5.3 有限の系には自発磁化が無い。どの $N$ でも、外場を切れば磁化はぴたり $0$ である。対称性が壊れていないからである。自発磁化は、極限を先に取ったときにだけ現れる。

観察 5.4 「相転移は熱力学極限でだけ起きる」(ヤン=リー)とは、この二つの極限が交換しないという言明にほかならない。物理の言葉と圏の言葉が、同じ一つのことを言っている。

6. 左右は鏡像ではない

検算 6.1:$\mathbb{Z}/p\leftarrow\mathbb{Z}/p^2\leftarrow\mathbb{Z}/p^3\leftarrow\cdots$ の各段の位数は $p,p^2,p^3,\dots$ と限りなく増える。その逆極限は $p$ 進整数環であり連続体濃度をもつ。一方 $\mathbb{Z}$ は可算である。(証明終)

観察 6.2 したがって $\mathbb{Z}\to\mathbb{Z}_p$ は単射だが全射でない。完全列に逆極限を当てると右端で完全性が失われ、その欠損が導来関手 $\varprojlim^1$ である。

観察 6.3 $\mathrm{Ab}$ では余極限(有向和)は完全で、逆極限は完全でない。極限と余極限は鏡像ではない。論文153 が「随伴は左右で対称ではない」と書いたことの、別の顔である。

7. 点呼

観察 7.1 

組 何を要するか 証拠 交換するか
極限と極限 なし 、 する
余極限と余極限 なし 、 する
フィルター余極限と有限極限 添字が有向 検算4.1 する
一般の余極限と極限 、 検算3.1 しない
$N\to\infty$ と $h\to0$ 、 検算5.1 しない

観察 7.2 (体系への適用) 論文03 は $\nu\to0$ を「特異極限」と呼び、論文113 の枠に「収縮しない境界」を加えた。本稿の語彙では、それは「その極限が、いま行っている操作と交換しない」ということである。したがって $\nu\to0$ について何かを言うときは、$\nu\to0$ と $t\to\infty$ のどちらを先に取ったかを書かねばならない。

観察 7.3 論文113 は「モジュールは壁ではなく極限である」と書いた。本稿が加えるのは、どの極限か、そして何に対してどの順序か、である(論文17)。

8. 結論

  1. 最小の例で $0$ と $1$(検算2.1)。順序は言明の一部である。
  2. 最小の圏論的な例で $\{a,b\}$ と空集合(検算3.1)。和は余極限、交わりは極限。
  3. 有向なら交換する(検算4.1)。分離子は「有向かどうか」である。
  4. キュリー=ワイス磁石で $0$ と $0.957504$(検算5.1)。有限の系に自発磁化は無い。
  5. 逆極限は完全でない(検算6.1)。極限と余極限は鏡像ではない。
  6. 論文03 の「特異極限」の住所は、交換しないことである(観察7.2)。

結び:極限をひとつ書いただけでは、まだ量になっていない。何をどの順に取ったかまで書いて、はじめて数が決まる。有限の磁石には自発磁化が無く、無限にしてから外場を切ると現れる。現れたのは磁化ではなく、順序である。

参考文献

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  2. Mac Lane, S. (1971). Categories for the Working Mathematician. Springer.
  3. Milnor, J. (1962). On axiomatic homology theory. Pacific Journal of Mathematics, 12.
  4. Weiss, P. (1907). L’hypothèse du champ moléculaire et la propriété ferromagnétique. Journal de Physique Théorique et Appliquée, 6.
  5. Yang, C. N. & Lee, T. D. (1952). Statistical theory of equations of state and phase transitions I. Physical Review, 87.
  6. Ellis, R. S. (1985). Entropy, Large Deviations, and Statistical Mechanics. Springer.
  7. 山岸勇輝 (2026). ナビエ=ストークス方程式における無次元数とスケール [論文03] 第4版. Zenodo. 10.5281/zenodo.21404030
  8. 山岸勇輝 (2026). 別根と言うのは半分である。住所を書け [論文17] 第3版. Zenodo. 10.5281/zenodo.21600813
  9. 山岸勇輝 (2026). 王道の点呼 [論文100]. Zenodo. 10.5281/zenodo.21758864
  10. 山岸勇輝 (2026). モジュールは壁ではなく極限である [論文113]. Zenodo. 10.5281/zenodo.21962996
  11. 山岸勇輝 (2026). 光が測れないのは、密度である [論文150]. Zenodo. 10.5281/zenodo.22083989
  12. 山岸勇輝 (2026). 二枚の被覆は、円周について間違った答を返す [論文151]. Zenodo. 10.5281/zenodo.22084096
  13. 山岸勇輝 (2026). 同じ指標表を持ちながら、同型でない [論文152]. Zenodo. 10.5281/zenodo.22084202
  14. 山岸勇輝 (2026). 何を忘れたかは、写像を数えれば分かる [論文153]. Zenodo. 10.5281/zenodo.22084355

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書誌

山岸勇輝(2026)「順序を書かない極限は、量ではない」[論文154]. Zenodo.
DOI: 10.5281/zenodo.22084647

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引用するとき

山岸勇輝 (2026). 順序を書かない極限は、量ではない [論文154]. YOI: https://www.yamagishiyuuki.com/yoi/154 ・ DOI: 10.5281/zenodo.22084647

Yamagishi, Y. (2026). A Limit Without Its Order Is Not a Quantity [Paper 154]. YOI: https://www.yamagishiyuuki.com/yoi/154; DOI: 10.5281/zenodo.22084647

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