1884 年の創業から 1995 年のジャノーとの合流まで、公式の社史で読む
フランスのベネトウは、セーリングヨットの名前としてよく知られています。けれど出発点は、いわし漁の町の、木の漁船の造船所でした。漁が衰えて仕事が無くなりかけたとき、この造船所は何を作って生き残ったのか。創業家のアネット・ルーさんが自分の言葉で語った公式の社史を、順にたどります。
CHAPTER 1木の漁船を造っていた時代
1-1 1884 年、橋のそばに造船所を開く
公式の社史は、創業者バンジャマン・ベネトウの生い立ちから始まります。彼はサン・ジルの、暮らしの楽ではない大家族に生まれ、6 歳のときに叔父のフランソワ・ウイエールに引き取られました。独り身だった叔父は、海と冒険と船への愛着を、この養子に伝えたと書かれています。
バンジャマンは 12 歳で、ラガーと呼ばれる帆船「エリザ」の見習い水夫になりました。船を造りたいという夢は、いちばんの友人の父親が持っていた造船所で始まります。1879 年の終わりごろには、兵役のためにロシュフォールへ入りました。
そして 1884 年、橋の近くのグルニエ河岸に、自分の造船所を開きます。看板には、自分の名前「ベネトウ」を掲げました。
社史は、当時の漁船について一つ大事なことを書いています。漁船の良し悪しは、だれが最初に港へ戻るかで決まった、というのです。最初に戻った船が、いちばん良い値で魚を売れたからです。速く走る船を造ること。この追求が、その後も設計と建造の中心に残り続けた、と社史は述べています。
1-2 エンジンをめぐって、石を持った人たちが待っていた
1909 年、バンジャマンは、この地方で最初のエンジン付きの漁船を設計しました。ところが、買い手が一人も付きません。彼は自分でその船の持ち主になり、船に「ねたむ者たちの征服者」という意味の名前を付けました。
当時のクロワ・ド・ヴィは大きないわし漁の港で、いわしの缶詰工場が十ほどありました。工場で働く女性たちは、エンジンの音が魚を追い払ってしまうと信じました。社史によれば、彼女たちは仕事を止め、石を手にしてバンジャマンを待ち構えました。レ・サーブル・ドロンヌとラ・ロッシュ・シュル・ヨンから、騎馬の警官が呼ばれています。
争いは数か月続いて、やがて収まりました。バンジャマンは、二隻目のエンジン付きのいわし漁船に「平和」という名前を付けています。新しい技術を最初に持ち込んだ人が、町の人たちとぶつかり、それでも造り続けた。社史がこの話を最初の章に置いているのは、この会社の性格を言い表す出来事だと考えているからでしょう。
1-3 二代目アンドレと、漁の衰え
第一次世界大戦のあと、造船所がふたたび動き出したのは 1928 年です。父も母も亡くし、一人息子のアンドレ・ベネトウが 21 歳で跡を継ぎました。町の人たちは、バンジャマンがいなくなったことを、造船所の終わりだと受け止めていたと書かれています。
アンドレは、父のような押しの強さは持っていませんでした。そのかわり、絵を描く才能がありました。一人の漁師が彼を信じて船を任せ、アンドレは小屋の下で最初の漁船を描き、造ります。進水の日に集まった人たちは、その漁船の姿の美しさに驚いたそうです。造船所は立ち直りました。
第二次世界大戦のあと、造船所は 1960 年代まで続く良い時期を迎えます。日曜日に森へ行って樫の木を選ぶところから仕事が始まった、と語り手は子どものころを振り返っています。父は芸術家として敬われていたけれど、母のジョルジーナこそが「ボス」だった、と語り手は書いています。
けれど、やがて客の訪れが減り、銀行の人の訪れが増えます。漁そのものが衰えていったからです。描くべき船が無くなり、造船所には 17 人の船大工が残っていました。この人たちの仕事を、どうやって見つけるのか。ここから、次の章の話が始まります。
CHAPTER 2ポリエステルの小舟が、新しい市場を作った
2-1 1963 年、いわし漁船のための小舟
転機は、新しい材料でした。父のアンドレは、ヨットのことは少しも考えていなかったけれど、ポリエステルという新しい材料を知っていた、と社史は書いています。父が考えたのは、いわし漁船に積む小舟をポリエステルで作ることでした。1963 年、父と息子のアンドレ(語り手の兄)が、これを形にします。
売り方も地道でした。漁師たちに小舟を売るために漁業の協同組合を回り、ロリアンの見本市に出します。そこで、のちに販売店になる人たちの目に留まりました。
小舟には名前が付きます。長さ 3.60 m のいわし漁用の小舟は「ギュピー」、4.30 m のものは「フレタン」になりました。5.80 m の小さなスピードボートは「オンブリーヌ」と名付けられ、これが父の設計した最後の船です。
社史はここで、こう振り返っています。私たちは新しい市場を一つ作ったところだった。のちに「遊びの釣り船」と呼ばれる市場である。けれど当時は、まだそのことを知らなかった、と。
| 名前 | 長さ | もとになった船 |
|---|---|---|
| ギュピー | 3.60 m | いわし漁用の小舟 |
| フレタン | 4.30 m | いわし漁用の小舟 |
| オンブリーヌ | 5.80 m | 小さなスピードボート |
2-2 1965 年 1 月、はじめてのパリのボートショー
1965 年 1 月、ベネトウは初めてパリのボートショーに出ました。語り手と、兄のアンドレと、その妻の三人にとって、とても緊張する場だったそうです。ほかのどの船も自分たちの船に似ておらず、都会にも慣れていなくて、場違いに感じたと書かれています。
ところが、開場から数時間で、三人の商売人が名乗り出ました。あなたたちの船は自分の客が探しているものだ。ほかの造船所は、こういう船を造りたがらない。そう言って、一人はモルビアン、一人はフィニステール、もう一人はコート・デュ・ノールの地域を任せてほしいと求めました。
三人の注文を合わせると、職人たちの数か月ぶんの仕事になりました。そこでベネトウは、この販売店の網を通して船を売ると決めます。社史によれば、当時このやり方をしていたのは、ほかにはジャノーだけでした。
それからの七年間で、会社は収支を立て直します。漁船の仕事を少しずつ終わらせながら、船大工たちに一人ずつ新しい仕事を見つけていきました。客の声を聞き、少しだけ大きい船がほしいという望みに合わせて、新しい船にだけ投資します。こうして、3.60 m から 5.80 m までの一揃いができあがりました。
2-3 1972 年、最初の工場と「エヴァジオン」
社史は 1972 年を「すばらしい年」と呼んでいます。お金の面がほぼ落ち着き、投資ができるようになったからです。まず人を雇い、最初の工場を建てました。大きくはないけれど、半ば工業的な生産を考えて設計した工場だった、と書かれています。
客は船の扱いを覚え、もっと大きい船を、船内の居心地を、そしてサロンから海が見えることを求めるようになっていました。新しい系列を始めるほど難しいことは無い、と語り手は言います。兄のアンドレは何か月も考え続け、ドイツのボートショーを訪ねたとき、レストランの紙ナプキンに新しい船を描いて「これが君たちの船だ」と言ったそうです。これが「エヴァジオン 32」で、のちに「エヴァジオン 37」「エヴァジオン 28」が続きます。
続いてコムキエに新しい工場を建てました。当時の帆走の市場が求める、いちばん大きな量産艇を造るための工場です。動力の船では、オンブリーヌから「アンタレス」の系列が生まれました。設計はやはりアンドレで、彼がいちばん好きだったのは釣りでした。末の弟のイヴォンも会社に入り、生産の専門家になっていきます。
CHAPTER 3「ファースト」から、グループへ
3-1 1976 年、速いヨット「ファースト」
1976 年ごろのベネトウは、遊びの釣り船でかなりの割合を占めていました。何千人もの客が乗っていましたが、もっと速く走りたいと言って離れていく客もいました。レースに強い帆走艇を造りたい。そう考えた会社のもとに、ハーフトン・カップで勝つために設計された艇「ランパンサーブル」の型を譲るという話が来ます。
ベネトウは、設計者のアンドレ・モーリックと一緒に、帆の配置、キール、船内の配置、船室の屋根の形を作り直しました。名前は「ファースト」です。パリのボートショーに出すと、大きな反響を呼びました。社史は、この船が輸出への道を本当に開いた、と書いています。
同じ 1976 年、ベネトウはアメリカのアナポリスに子会社を開いています。目的は、名前を知ってもらうことと、現地にいてアメリカの客の好みを知ることでした。外の設計者に初めて設計を任せたことと、海の向こうに拠点を置いたこと。この二つが、同じ年に起きています。
3-2 貸しヨット、オセアニス、そして上場
1980 年代のベネトウは、育ち始めた貸しヨットの会社に目を向けます。相手は、当時世界でいちばん大きかったムーリングスでした。一緒に、貸しヨットとして使うことを最初から考えた船を設計します。こうして生まれたのが、長さ 13.50 m の「イディル」です。社史は、これをオセアニスの系列の先祖のようなものだと書いています。
1982 年には、同じ設計の艇だけで競うクラスを始めました。ジャン・マリー・フィノが設計した「ファースト・クラス 8」は、フランスで最初のワンデザインのクラスになり、1,000 隻近くが、二十年を超えて競い合ったそうです。
1984 年、フランスの株式市場に第二市場ができました。創業から百年の年に、ベネトウはここに上場します。翌 1985 年には、シャランに新しい工場を建て、アメリカのマリオンという小さな町に、初めての海外の生産拠点を作り始めました。チャールストンから車で二時間ほどの町です。
増え続ける注文に応えるために、新しい巡航用の系列も始めます。フィリップ・ブリアンの設計で、まず「オセアニス 350」、続いて「オセアニス 430」ができました。社史によれば、それから 40 年がたち、オセアニスは八世代を数えています。
- 1884バンジャマン・ベネトウが造船所を開く
- 1909地方で最初のエンジン付き漁船
- 1928二代目アンドレが 21 歳で跡を継ぐ
- 1963ポリエステルの小舟を作る
- 1965パリのボートショーに初めて出る
- 1972最初の工場。エヴァジオン 32
- 1976ファースト。アナポリスに子会社
- 1984第二市場に上場
- 1985シャランの工場。アメリカのマリオンに生産拠点
- 1992CNB を引き継ぐ
- 1995ジャノーが加わる
3-3 危機と、ジャノーとの合流
1987 年のパリでは、デザイナーのフィリップ・スタルクが関わった「ファースト 35 S 5」を出しました。語り手によれば、客の二人に一人は大好きになり、二人に一人は嫌ったそうです。それでも生産はうまくいき、会社だけでなく業界全体を前へ進めた、と振り返っています。
1991 年、業界全体が危機に入ります。社史は、数字だけで乗り切ろうとして事業をつぶす会社もあった、と書いています。ベネトウは、従業員とまとまっていたから乗り越えられた、と述べています。この時期に、語り手は母と夫を亡くしました。
1992 年、ベネトウはボルドーの造船所 CNB を引き継ぎます。これがグループとして初めての外からの取得でした。そして 1995 年、長年の競争相手だったジャノーが二つ目になります。パリの役所は別の形で業界をまとめようとしていましたが、ベネトウは裁判所に自分たちの案を出し、ラ・ロッシュ・シュル・ヨンの裁判所はベネトウの案を選びました。社史はこれを、自分たちの歴史の中でいちばん大きな出来事と呼んでいます。
この危機の中で、ベネトウ造船所は「ベネトウ・グループ」になりました。本社は、サン・ジル・クロワ・ド・ヴィの港の入口の向かいに置かれます。父が子どもたちを連れて、新しい漁船の進水を見に行った場所です。2004 年には、家族が中心だった経営の形を改め、外の人も入る監督の会と、実務の会の二つに分けました。
SOURCES出典
- BENETEAU 公式サイト「History」(創業家アネット・ルーによる社史)
https://www.beneteau.com/history(2026-10-02 確認)
この記事は、上の資料の原文を確かめたうえで書いています。年や長さなどの数は、資料に書かれているものだけを使いました。資料どうしで書き方が違う所は、本文でそのように断っています。記事の中の社名と艇名は、各社の商標です。