ニュージャージーの家族の造船所が、公式の社史に書いていること
バイキングは、アメリカのニュージャージー州で大きなスポーツフィッシングの船を造っている会社です。創業から六十年を超えて、一つの家族が経営を続けています。公式の社史の中で、ひときわ重く書かれているのが 1990 年代のはじめです。連邦の税が一つ入っただけで、従業員が 1,500 人から 80 人を切るところまで減りました。この三年間の前と後を、会社が自分で書いた文でたどります。
CHAPTER 1木の船の小さな造船所を、兄弟が買った
1-1 1964 年、37 フィートの木の船
公式の社史によれば、バイキングは 1964 年に、ビル・ヒーリーと弟のボブが始めた会社です。二人は、ピーターソン・バイキング・ビルダーズという造船所を買い取りました。社史はこの造船所を、小さくて、経営に苦しんでいたニュージャージーの造船所だと書いています。造っていたのは、長さ 37 フィートの、木のスポーツフィッシングの船でした。
ビル・ヒーリーには口ぐせがありました。毎日、きのうより良い船を造る、というものです。社史は、この言葉に従って会社が育ってきたと述べています。いまのバイキングは、客の注文に半ば合わせて造るガラス繊維の船で世界の先頭に立ち、これまでに届けた船は 5,500 隻を超える、と書かれています。37 フィートの木の船から始まった会社が、いまは基本の形であるオープン・ブリッジの船だけでも、50 フィートから 90 フィートまでの八つの長さをそろえています。
社史は冒頭で、この会社の姿を三つの言葉でまとめています。質の良いものを造ること。造る人たちを大事にすること。業界のために声を上げること。三つ目は、船の会社の自己紹介としては少し変わっています。なぜそれが入っているのかは、次の章の出来事を読むと分かります。
1-2 1970 年代、木からガラス繊維へ
1970 年代のはじめ、バイキングは最初のガラス繊維の船を出しました。長さ 33 フィートの船です。そのあとに、よく売れた船が続きます。なかでも評判だったのが、35 フィートの船と、40 と 41 フィートの系列でした。社史によれば、40 と 41 の系列だけで 600 隻を超えて売れています。
この時期に、いまの社長で最高経営責任者のパトリック・ヒーリーが会社に入りました。創業者ビルの息子です。社史は、ヒーリー家を支えた人たちの名前も挙げています。ブルース・ウィルソン、ボビー・ウォーカー、ルディ・ダリンジャー。家族の会社の社史に、家族でない人の名前が先駆者として残されているわけです。
木の船の造船所を買ってから、ガラス繊維の船を出すまでに、数年しかかかっていません。前に書いたフランスのベネトウも、同じころに木から樹脂へ移りました。材料が変わるときに、うまく乗り換えられた造船所が、その後の時代に残っています。これは社史が言っていることではなく、二つの社史を並べて読んだ私の感想です。
1-3 1980 年代、試す船を自分で持つ
1980 年代のバイキングについて、社史は、技術の良さと洗練された設計で評判を高め続けた、と書いています。この十年に出した船として、45、47、48 フィートの名前が挙がっています。この大きさの船の品ぞろえを固めた時期でした。社史が 1980 年代について書いているのは、この船の名前と、次の一つの出来事だけです。
1984 年には、パット・ヒーリー(パトリック)が「デモ・プログラム」を始めました。社史は、これがいまも会社の設計と技術の成功に欠かせないものだ、と書いています。くわしい中身は社史には書かれていません。名前から分かるのは、会社が自分で実演用の船を持ち、それを使い続けているということです。
ここまでの二十数年、社史の書きぶりは穏やかです。新しい船が出て、よく売れて、人が育つ。その調子が、次の章で一変します。
CHAPTER 21,500 人が、80 人を切った
2-1 不況と、10 パーセントの連邦税
社史は、1990 年代を「大きな試練」という言葉で始めています。まず 1990 年に不況が来ました。続いて 1991 年に、連邦のぜいたく税が入ります。税率は 10 パーセントでした。
社史の言葉は強いものです。政府のこの行き過ぎが、船の産業を打ちのめし、バイキングにもひどい打撃を与えた、と書いています。ニュージャージーのこの造船所は、従業員を 1,500 人から 80 人に届かない数まで減らさざるをえませんでした。
1,500 人が 80 人を切る。二十人いた職場に、一人が残るかどうか、という減り方です。高い船を買う人に税をかける、という考えで作られた税が、実際には船を造る人たちの仕事を消してしまった。社史が「業界のために声を上げること」を会社の姿の一つに数えるのは、このときの経験があるからでしょう。
2-2 家族のお金で、会社を浮かせる
会社はどうやって生き延びたのか。社史の答えは短いものです。ヒーリー家は運転資金を借り、自分たちのお金もつぎ込んで、会社を沈ませなかった、と書かれています。
同時に、ヒーリー家は税そのものを無くす運動に加わりました。社史によれば、全国の草の根の運動を組み立てるうえで、大事な役割を果たしています。その運動が実って、税は 1993 年に廃止されました。入ってから廃止まで、足かけ三年です。
この時期には、釣り人の権利を守るための団体「レクリエーショナル・フィッシング・アライアンス」も作られました。社史は、この団体の設立を 1990 年代の出来事の一つに挙げています。船を造る会社が、船に乗る人たちの団体の設立を自分の歴史に書いている。税の経験が、会社の外へ向けた動きにつながっていったことが読み取れます。
2-3 税が消えたあとに出た「55」
社史は、税が片づいたあとのことを、こう書いています。バイキングは、新しい船を出す用意ができていた、と。苦しい三年のあいだも、次の船の準備を止めていなかったということです。
1990 年代の成果として、社史が真っ先に挙げるのが「バイキング 55」です。いまのコンバーチブル(上に操縦する場所を持つスポーツフィッシングの船)の基準を作った画期的な船だ、と書かれています。
1996 年には、もう一つ新しい形が出ました。操縦する場所を窓と屋根と扉で完全に囲った船で、最初の一隻は「58」でした。社史はバイキングを、この形の先駆けだとしています。囲われた操縦の場所は、空調の効いた二つ目の居間にもなり、長い距離を走るときや海が荒れたときに役に立つ、という説明です。上がるには、外のはしごか、船内の階段を使います。後ろの甲板には、港に着けるときのための操縦の場所も付くのがふつうだ、と書かれています。
のちには、開けた操縦席の見晴らしと、囲われた操縦席の居心地を合わせた「スカイ・ブリッジ」という形も出ました。いまは 74、82、90 フィートの船で選べます。社史によれば、この形を求める声は、この十年で急に増えました。釣りのための船が、長く乗っていられる船へと広がっていった流れが、ここから見えます。
同じ 1990 年代に、バイキングはイギリスで造られるプリンセスのヨットをアメリカで扱う会社も作りました。大きな釣りの船を造る会社が、イギリスのモーターヨットの売り手にもなったわけです。
CHAPTER 3立て直したあとの三十年
3-1 2000 年代、工場と機械に投資する
社史は 2000 年代を、成長と、成し遂げたことが認められた十年と呼んでいます。工場の拡張に 1,000 万ドルをかけ、型を削るための五軸の機械を 100 万ドルで入れました。新しい船を、前より効率よく造るための投資です。
会社のまわりにも、子会社が増えていきます。パット・ヒーリーは、船の電子機器を扱うアトランティック・マリン・エレクトロニクスと、釣りのための高い見張り台を造るパーム・ビーチ・タワーズを作りました。フロリダのパーム・ビーチ郡には、修理と整備の拠点も開いています。船体だけでなく、船に載せるものと、売ったあとの面倒まで、自分のところで持つ形です。
創業者のビルとボブは、この十年のあいだに業界団体の殿堂に選ばれました。工場のあるニュー・グレトナからは、60、65、74、82 フィートという、それまでより大きい船が次々に出ています。80 人を切った会社が、次の十年には 82 フィートの船を造るところまで戻ったことになります。
3-2 2010 年代、92 フィートと、小さい船の工場
続く十年について、社史は、競争相手との差がさらに開いた時期だと書いています。この時期に出たのが「92 エンクローズド・ブリッジ」です。樹脂を型に吸い込ませて固める方法で造る量産のスポーツフィッシングの船としては世界でいちばん大きい、と社史は説明しています。70 と 80 フィートの船も出ました。
もう一つの大きな動きは、工場です。バイキングは、もとはオーシャン・ヨットという別の会社のものだった造船の工場を手に入れ、二つ目の工場にしました。はじめは小さめのバイキングを造り、新しい「ビルフィッシュ」の系列もここで造ります。そのあと、この工場は「ヴァルハラ・ボートワークス」の船を造る場所になりました。ヴァルハラは、船の真ん中に操縦台を置いた、屋根の無い釣りの船の会社です。2019 年に三つの船を出して始まりました。
家族の側では、ボブの息子が従兄のパットと一緒に働き始め、パットの息子二人も会社に入りました。三代目です。社史は、この二人がヴァルハラの立ち上げに大きく貢献したと書いています。
| 時期 | 社史に出てくる船 |
|---|---|
| 1964 年 | 37(木の船) |
| 1970 年代のはじめ | 33、35、40 と 41 |
| 1980 年代 | 45、47、48 |
| 1990 年代 | 55、58 |
| 2000 年代 | 60、65、74、82 |
| そのあと | 70、80、92、90 |
3-3 いまも、声を上げている
2023 年のマイアミのボートショーで、バイキングは二つの旗艦を並べました。「バイキング 90」と「ヴァルハラ 55」です。そのあと、82 と 74 の二代目も出しています。パーム・ビーチには、広さ 30,000 平方フィートのヴァルハラの展示場を新しく開きました。
そして社史の最後は、船の話ではなく、ふたたび政府とのやり取りで終わります。連邦政府は、東海岸に沿って船の速さを 10 ノットまでに抑える案を出していました。大西洋のセミクジラを守るための案です。バイキングはこの案を取り下げるよう働きかけ、取り下げさせることに成功した、と書いています。同時に、技術を使ってこのクジラを守る取り組みを先頭に立って進めている、とも書いています。
1991 年の税のときに、黙っていれば会社が無くなることを、この家族は知りました。三十年たっても、社史の結びが業界のための働きかけになっているのは、その記憶が続いているからだと私は読みました。船の出来だけでなく、船を造り続けられる世の中を保つことまでが、この会社の仕事になっています。
SOURCES出典
- Viking Yachts 公式サイト「History」
https://www.vikingyachts.com/History.asp(2026-10-02 確認) - Viking Yachts 公式サイト「Heritage」
https://www.vikingyachts.com/Heritage.asp(2026-10-02 確認)
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