アジムットは、大学生の貸しヨットから始まった

モーターヨット

売る側から造る側へ移った 1975 年と、大西洋に挑んだ 1988 年

イタリアのアジムットは、モーターヨットで世界に知られる会社です。公式の社史は、最初の一行をこう書いています。1969 年、パオロ・ヴィテッリが帆走ヨットの貸し出しを始める。大学生の商売でした。船を貸し、よその船を売り、それから自分の名前の船を造る。その順番と、そのあとの大きな挑戦を、会社が公開している社史でたどります。

CHAPTER 1貸す、売る、それから造る

1-1 1969 年、大学生が始めた貸しヨット

公式の社史によれば、アジムットを作ったのは、当時大学生だったパオロ・ヴィテッリです。1969 年のことでした。仕事の中身は、帆で走るヨットを貸すことです。モーターヨットで知られる会社の出発点が、帆のヨットの貸し出しだったことになります。

社史は続けて、こう書いています。時がたつにつれて、ヨットの有名な会社が次々に、イタリアで自分たちの船を売る役目をこの会社に任せるようになった、と。貸す仕事から、よその船を売る仕事へ。若い会社が、売り手として信用を集めていったことが分かります。

1973 年という年にも、見出しが立っています。社史はこの年を、一人の起業家の試みから、きちんと形の整ったヨットの会社へ移った節目だと説明しています。大学生の商売が、四年で会社の形になったわけです。社史のこの時期の記述は、どれも二、三行の短いものです。船の名前も、建物の話も出てきません。出てくるのは、貸す、売る、会社にする、という三つの動きだけです。

前に書いたイギリスのプリンセスも、最初は船を貸す会社として始まりました。プリンセスは借り手が付かずに船を売り、そこから造船所になりました。アジムットは、貸す仕事とよその船を売る仕事を何年も続けてから、造る側へ進みます。入口は同じでも、道筋が少し違います。

1-2 1975 年、初めて自分の名前を付けた船

1975 年、アジムットは、売る側から造る側へ最初の一歩を踏み出しました。アメルグラスという会社と組んで出したのが「AZ 43 バリ」です。社史は、当時造られたガラス繊維のヨットとしては最大級の一隻で、アジムットの名前を持つ最初の船だった、と書いています。

設計したのは、ベルナルド・オレシンスキとテリー・ディズデイルです。オレシンスキは、のちに 1980 年からプリンセスの船を設計し続けることになる、あの設計者です。二つの国の造船所の社史に、同じ設計者の名前が出てきます。

社史は、この船を、技術と感情の釣り合いをつかんだ画期的な船と呼び、大きな夢が現実に変わった転機だったと書いています。短い一文も添えられています。当時造られたガラス繊維のヨットとしては最大級の一隻だった。そして百パーセント、アジムットだった、と。よその船を売っていた会社が、これは全部自分たちの船だ、と言えるようになった喜びが、この言い方に出ています。よその船を売ってきた会社にとって、自分の名前を付けた船を出すのは、立場がまるごと変わる出来事でした。

1-3 1977 年、立ったまま風を受けて走る「タルガ」

二年後の 1977 年、アジムットは「AZ 32 タルガ」を出します。設計はジョン・ベネットです。この人も、プリンセスの「37」を設計した人として、プリンセスの社史に名前が出てきます。

タルガには、二つの新しい工夫がありました。一段高くした操縦席と、開く屋根です。社史によれば、これで、立ったまま外の空気の中を走るという乗り方ができるようになりました。海の上の自由をだれにでも手の届くものにした、と社史は書いています。

この船は、国の外でもよく売れました。社史はこれを、見た目の個性を損なわずに設計を広く行き渡らせる力の象徴だった、と振り返っています。小さめで、きれいで、頼りになる。大きな一隻で名前を上げ、小さな一隻で客を広げる。二年のあいだに、会社は両方をやってみせました。

TIMELINE貸す会社から、造る会社へ(公式の社史から)
  1. 1969パオロ・ヴィテッリが帆走ヨットの貸し出しを始める
  2. 1973ヨットの会社としての形が整う
  3. 1975AZ 43 バリ。アジムットの名前を持つ最初の船
  4. 1977AZ 32 タルガ。高い操縦席と開く屋根

CHAPTER 2大きさと速さに挑んだ 1980 年代

2-1 百日で造った「ファイラカ」

1980 年代のはじめ、アジムットは、当時いちばん大きいガラス繊維のモーターヨットを出しました。「ファイラカ 105」です。

この船の始まりについて、社史は一つの場面を書いています。パオロ・ヴィテッリが、クウェートの王子との仕事の昼食の席で、最初の線を描いた、というものです。ベネトウの社史にも、紙ナプキンに船を描く場面がありました。造船所の社史には、食事の席で船が生まれる話がよく出てきます。

社史によれば、ファイラカ 105 は、たった 100 日で仕上げられました。届け先はスコルピオス島です。オナシス家が島に着く、ほんの数時間前に届いた、と書かれています。強さと軽さと優雅さを、それまでのどの大きなヨットよりもうまく一つにした船だった、というのが社史の評価です。

1975 年のバリは、当時「最大級の一隻」でした。それから十年とたたないうちに、アジムットは「いちばん大きい」と言える船を出しています。ガラス繊維でどこまで大きい船が造れるか。その限界を自分で押し広げることが、この時期の会社の進み方でした。

2-2 ベネッティを手に入れる

社史の年の見出しでは、次は 1985 年です。見出しの文は「歴史を作ってきた造船所ベネッティの取得」となっています。

パオロ・ヴィテッリは、名のあるベネッティの造船所を手に入れました。社史は、これをアジムットの歩みを決めた出来事だと書いています。この結びつきが、のちに、ヨットとメガヨットの業界で世界最大の、株式を公開していない企業グループになる土台を作った、という説明です。

ガラス繊維のモーターヨットを造ってきた会社が、大きな船の伝統を持つ造船所と一つになりました。小さい船から大きい船まで、同じ持ち主のもとで造れるようになったわけです。いまのページのいちばん下にも、会社の名前は「アジムット・ベネッティ・グループ」と書かれています。社史のこの項目は、見出しと三つの文だけの短いものです。いくらで買ったのか、なぜ売りに出ていたのかは、書かれていません。書かれているのは、この出来事が会社の行き先を決めた、という評価だけです。

2-3 1988 年、大西洋の記録に挑む

社史のこの項目の見出しは「伝説のブルーリボンで、世界の目を引く」です。1988 年、アジムットの造船所は「ブルーリボン」に挑みました。途中で燃料を足さずに大西洋を渡る、その速さの記録です。

そのための船が「アジムット・アトランティック・チャレンジャー」でした。設計はピニンファリーナです。エンジンは四基で、合わせて 7,400 馬力。これに二基のウォータージェットを組み合わせています。社史は、エンジンは CRM、ウォータージェットはリーヴァ・カルツォーニと、作った会社の名前まで書き残しています。舵を取ったのはチェーザレ・フィオリオで、お金を払って乗った客の一人にウィンスロップ・ロックフェラーがいた、と社史は書いています。

結果は、勝ちではありませんでした。技術的な不具合が出て、記録は取れなかったのです。それでも社史は、この挑戦をイタリアの野心と勇気の象徴と呼び、忘れられない節目に数えています。うまくいかなかった挑戦を、自分の歴史の見出しに立てている。会社がこの出来事をどう受け止めているかが、そこに表れています。

FIGURE社史に出てくる船の名前の数字(フィート)
AZ 32 タルガ(1977 年)32
AZ 43 バリ(1975 年)43
ファイラカ 105(1980 年代のはじめ)105
118 ペントハウス118

CHAPTER 3窓の形と、船の中身が変わっていく

3-1 ピニンファリーナと、「赤はありません」

1991 年、アジムットは、新しい「アジムット 65」の形をピニンファリーナに任せました。フェラーリの設計で名高い会社です。社史によれば、この船は、船体と上の構造がひと続きに見えることと、高い位置に置いた空気の取り入れ口が特徴でした。

売り出すときの広告の文句が、社史に残っています。「赤はありません」。フェラーリを描いてきた設計の会社と組んだことを、一言で伝える文句でした。

続く「アジムット 118 ペントハウス」は、テレンス・ディズデイルがオレシンスキと組んで設計しました。最初の一隻を描いた二人です。この船は、アジムットの中でただ一隻、水を噴き出して進む仕組みを持っていました。ベネッティの造船所で造られた最初のガラス繊維のヨットでもあります。上の甲板には、壁がガラスの居間がありました。

3-2 リギーニが変えた、窓の形

社史が「設計の言葉の本当の転機」と呼んでいるのが「AZ 54」です。設計者のステファノ・リギーニと初めて組んだ船で、彼はそのあと何十年も、アジムットの見た目を作り続けることになります。長さ 17 メートルの船では見たことの無かった工夫が入っていた、と書かれています。下の甲板へ横から降りる通路や、真ん中に置いた丸い操縦席です。

1999 年の「68 プラス」は、曲がったガラスの窓を、船の世界に初めて持ち込みました。ガラス繊維とガラスを組み合わせて、上の構造をなめらかな曲線にできるようになります。

そして世紀の変わり目の「アジムット 55」で、リギーニは横の窓の形を変えました。それまでの楕円の窓をやめ、サメの背びれのような形の窓にしたのです。社史は、これが船の外見を強くすっきりさせ、室内の光も増やした、と説明しています。この背びれの形は、2004 年の「68 エヴォリューション」では上の甲板の後ろにも使われた、と社史は書いています。

3-3 遠くへ行く船、静かに走る船、いちばん大きい船

2009 年、アジムットは「マジェラーノ 74」を出しました。社史はこれを、世界で最初のクロスオーバーのヨットと呼んでいます。昔ながらのトローラー(遠くまでゆっくり行く船)を、いまの形に作り直したものです。設計はケン・フライヴォークでした。

2013 年の「マジェラーノ 50」は、会社として初めての環境の試みでもありました。低い速さなら、音を立てず、排気を出さずに走れる仕組みを積んでいます。社史は、環境への責任が業界の合言葉になる何年も前のことだった、と書いています。

そのあとも、新しい試みが続きます。2014 年の「55S」は三基の推進装置、2015 年の「アジムット 72」は上の構造をすべて炭素繊維にした船、2016 年の「ヴァーヴ 40」は船外機で走る船でした。2021 年の「グランデ・トライデッキ」は、三つの甲板にもう一つ、半分だけ高くした後ろの甲板を足しています。

2024 年には、二つの船が出ました。一つは「シーデック 6」で、会社がこれまででいちばん環境に配慮した系列だとしています。もう一つは「グランデ 44M」で、この造船所が造った最大のヨットです。設計はアルベルト・マンチーニで、四つの甲板を持ち、操縦席をいちばん上の甲板へ移したので、その下の甲板がまるごと持ち主の場所になった、と説明されています。

TABLE2009 年からの新しい試み(公式の社史から)
年 船 社史が挙げる新しさ
2009 マジェラーノ 74 最初のクロスオーバーのヨット
2013 マジェラーノ 50 低い速さで排気を出さずに走る
2014 55S 三基の推進装置
2015 アジムット 72 上の構造がすべて炭素繊維
2016 ヴァーヴ 40 船外機で走る
2021 グランデ・トライデッキ 三つの甲板にもう一つ
2024 グランデ 44M この造船所で最大

SOURCES出典

  1. Azimut Yachts 公式サイト「Heritage」
    https://azimutyachts.com/en/heritage/(2026-10-02 確認)
  2. Princess Yachts 公式サイト「Our Story」(設計者オレシンスキとベネットがプリンセスの船も設計したこと)
    https://www.princessyachts.com/our-story/(2026-10-02 確認)

この記事は、上の資料の原文を確かめたうえで書いています。年や長さなどの数は、資料に書かれているものだけを使いました。資料どうしで書き方が違う所は、本文でそのように断っています。記事の中の社名と艇名は、各社の商標です。

WRITTEN BY山岸 勇輝Yuuki YAMAGISHI

独立研究者(Independent Researcher)。公式の資料や統計など、一次の資料にあたって書くことを続けている。船が好きで、とくにアルベマーレに思い入れがある。