要旨
マクスウェルのデーモンは、百年以上のあいだ「どこに代価があるか」を問われ続けた。本稿が数えるのは、答ではなく代価の置き場所である。五人が、五つの違う場所に置いた。新しい数学定理も新しい法則も主張しない。
第一に、一ビットの値段は $300$ K で $\mathbf{2.870979\times 10^{-21}}$ J、すなわち $\mathbf{0.017919}$ eV である。$100$ W の装置がこの限界で働けば、毎秒 $\mathbf{3.4831\times 10^{22}}$ ビットを消せる(第3節)。
第二に、シラードの機関は、一回の測定からちょうどその分を取り出す。等温膨張の仕事は $\mathbf{2.870978885079\times 10^{-21}}$ J で、$k_BT\ln 2$ との差は $6.5\times 10^{-35}$ J であった(第4節)。
第三に、これが本稿の芯である。同じ「非可逆ゲート」でも、失う量が違う。AND・OR・NAND は $\mathbf{1.188722}$ ビットを失い、XOR は $\mathbf{1.000000}$、消去は $\mathbf{1.000000}$ である(第5節)。
第四に、可逆にできるゲートは、何も失わない。NOT・複製・トフォリ・フレドキンはいずれも $\mathbf{0.000000}$ ビットであり、後の二つは $8$ 状態の置換で、二度かけると元に戻る(第6節)。
第五に、可逆な AND の代価は、消去ではなく場所である。トフォリで組むと失う情報は $\mathbf{0}$ だが、三本目の線が要る(第7節)。
第六に、帳尻は合う。$N$ 回まわして取り出した仕事と、記録を消す代価は、$N$ がいくつでも差引ゼロである(第8節)。
射程(何を示さないか)
新しい数学定理も新しい法則も主張しない。マクスウェルの思考実験、シラードの一ビット機関、ブリルアンの測定代価、ランダウアーの消去限界、ベネットによる解決、トフォリとフレドキンのゲートは、いずれも標準的である。測定値を引かない。本稿の数はすべて定義から計算したか、全数え上げで得たものである。論争の決着を宣言しない。ベネットの解決の後も、測定と情報を含む第二法則の一般化は現在も研究されている。本稿は論争の構造を数えるだけである。フィードバック制御の理論を作らない。第4節は等温膨張の仕事を積分するだけである。熱力学第二法則が破れるとも破れないとも主張しない。示すのは代価の置き場所が人によって違ったという事実だけである。計算機の実装を論じない。第5節と第6節は真理値表を全数え上げしただけであり、実在の素子については何も述べない。既刊との関係:論文131 は $k_BT\ln 2$ を三つに分け、非可逆なゲートが必ず一ビットを払うわけではないと書いた。本稿はその「一ビットではない」に数を入れる(AND は $1.188722$)。論文88 は粗視化のエントロピーと地平線のエントロピーを分けた。本稿が扱うのは三つ目、記録のエントロピーである。論文126 はカラテオドリの公理化を三段に分けた。本稿は同じ第二法則を、情報の側から見る。論文4 は総当たり探索の資源限界を扱った。その限界の出所が本稿の第3節である。論文143 は最小エントロピー生成が原理ではなく柵つきの定理だと示した。本稿も「原理」と呼ばれてきたものの中身を開ける。加えたのは五人の代価の置き場所を一枚に並べたこと、非可逆ゲートが失う量を全数え上げしたこと、可逆化の代価が消去ではなく場所であることを数で示したことである。
1. 記法と位置づけ
設定:箱の中の気体を、真ん中の仕切りで二つに分ける。速い分子だけを片側へ通す小さな存在を置けば、何もせずに温度差ができ、そこから仕事を取り出せる。熱力学第二法則が破れるように見える。マクスウェルが $1867$ 年に手紙で書いた思考実験である。
問いは百年以上のあいだ「どこかに代価があるはずだ」という形で立てられてきた。本稿が数えるのは、答ではない。代価の置き場所である。
本稿は論争の決着を宣言しない。第二法則が破れるとも破れないとも主張しない。
2. 五人が、五つの違う場所に代価を置いた
| 誰が | いつ | 代価はどこにあると言ったか |
|---|---|---|
| マクスウェル | $1867$ | **代価は要らない**(だから逆説である) |
| シラード | $1929$ | **測定**。一ビット知るのに $k_BT\ln 2$ |
| ブリルアン | $1951$ | **観測の物理的実装**。見るための光子が要る |
| ランダウアー | $1961$ | **消去**。一ビット消すのに $k_BT\ln 2$ |
| ベネット | $1982$ | **消去だけ**。測定は原理的に無料にできる |
観察 2.1 五人とも第二法則を守ろうとしている。違うのは、どの操作に代価を割り当てたかだけである。測定か、観測の実装か、消去か。
観察 2.2 分離子はここにある。「デーモンの代価」という一語は、操作を名指していない。名指すまで、誰が正しいかは決まらない。そして名指した瞬間に、五つのうちどれの話かが決まる。
観察 2.3 ベネットの解決が効いたのは、論理的可逆性と物理的可逆性を分けたからである。測定は論理的に可逆にできる。消去はできない。したがって代価は測定ではなく消去に落ちる。
3. 一ビットの値段
検算 3.1:$300$ K での $k_BT\ln 2$ を計算する。
| 量 | 値 |
|---|---|
| $k_BT\ln 2$ | $\mathbf{2.870979\times 10^{-21}}$ J |
| 同じものを電子ボルトで | $\mathbf{0.017919}$ eV |
| $100$ W の装置が限界で消せるビット数 | 毎秒 $\mathbf{3.4831\times 10^{22}}$ |
観察 3.2 この数は小さい。室温での熱運動そのものの大きさである。論文4 が総当たり探索の資源限界を出したとき、下敷きにしたのがこの値である。
観察 3.3 論文131 は、この式の三つの部分を分けた。$k_B$ は単位の変換係数、$\ln 2$ は情報の単位の選択、物理は $T$ にしかない。本稿はその上に立って、何ビット払うのかを数える。
4. シラードの機関:一回の測定から取り出せる仕事
設定:分子一個の箱に仕切りを入れ、どちらにいるかを測り、その側から等温膨張させる。仕事は $\int P dV$ である。
検算 4.1:体積 $V$ から $2V$ までの等温膨張を、$2000001$ 点で数値積分する。
| 測ったもの | 値 |
|---|---|
| 等温膨張の仕事 | $\mathbf{2.870978885079\times 10^{-21}}$ J |
| $k_BT\ln 2$ | $2.870978885079\times 10^{-21}$ J |
| 差 | $6.5\times 10^{-35}$ J |
観察 4.2 取り出せる仕事は、一ビットの値段とちょうど同じである。シラードはここから「測定に $k_BT\ln 2$ の代価がある」と読んだ。取り出した分と釣り合うのだから、そう読むのが自然である。
観察 4.3 ところが同じ数は、消去の代価とも釣り合う。数が一致していることは、どちらの操作に代価があるかを決めない。釣り合いだけからは、置き場所が決まらない。
5. 芯:同じ非可逆ゲートでも、失う量が違う
設定:入力を一様と仮定し、入力の情報量から出力の情報量を引いた分を、そのゲートが失った量とする。真理値表を全数え上げする。
| ゲート | 入力 | 出力の情報量 | 失った量 | 単射か |
|---|---|---|---|---|
| AND | $2$ ビット | $0.811278$ | $\mathbf{1.188722}$ | いいえ |
| OR | $2$ ビット | $0.811278$ | $\mathbf{1.188722}$ | いいえ |
| NAND | $2$ ビット | $0.811278$ | $\mathbf{1.188722}$ | いいえ |
| XOR | $2$ ビット | $1.000000$ | $\mathbf{1.000000}$ | いいえ |
| 消去 | $1$ ビット | $0.000000$ | $\mathbf{1.000000}$ | いいえ |
| NOT | $1$ ビット | $1.000000$ | $\mathbf{0.000000}$ | はい |
| 複製 | $1$ ビット | $1.000000$ | $\mathbf{0.000000}$ | はい |
観察 5.1 「非可逆なゲートは一ビット払う」は正しくない。AND は $1.188722$ ビットを失い、XOR はちょうど $1.000000$ を失う。同じ「二入力一出力の非可逆ゲート」なのに、量が違う。
観察 5.2 理由は、出力の偏りである。AND の出力は $0$ が三回、$1$ が一回で、その情報量は $0.811278$ ビットしかない。XOR の出力は $0$ と $1$ が二回ずつで、ちょうど $1$ ビットである。失う量は、入力の偏りではなく出力の偏りが決めている。
観察 5.3 論文131 は「非可逆なゲートが一ビットを払うわけではない」と書いた。本稿はそこに数を入れた。払うのは $1$ ビットではなく、$1.188722$ ビットである。そして、一ビットちょうどを払うのは消去と XOR だけであった。
6. 可逆にできるゲートは、何も失わない
検算 6.1:三入力三出力のトフォリ・ゲートとフレドキン・ゲートを、$8$ 状態すべてについて調べる。
| ゲート | 相異なる出力 | 失った量 | 二度かけると元に戻るか |
|---|---|---|---|
| トフォリ | $8 / 8$ | $\mathbf{0.000000}$ | **はい** |
| フレドキン | $8 / 8$ | $\mathbf{0.000000}$ | **はい** |
観察 6.2 どちらも $8$ 状態の置換であり、しかも対合である。二度かけると恒等写像になる。だから逆を作る必要すらない。同じものをもう一度かければよい。
観察 6.3 この二つは万能である。すなわち、あらゆる論理回路をこの二つだけで組める。したがって計算そのものに消去は要らない。これがベネットの結論の中身である。
7. 可逆な AND:代価は消去ではなく、場所である
検算 7.1:AND をトフォリで組む。第三の線に $0$ を用意し、$(a,b,0)$ を $(a,b,a\wedge b)$ へ送る。
| 入力 | 出力 |
|---|---|
| $(0,0,0)$ | $(0,0,0)$ |
| $(0,1,0)$ | $(0,1,0)$ |
| $(1,0,0)$ | $(1,0,0)$ |
| $(1,1,0)$ | $(1,1,1)$ |
観察 7.2 四つの入力が四つの違う出力へ行く。単射である。失った情報は $\mathbf{0.000000}$ ビット:同じ AND が、組み方を変えただけで $1.188722$ から $0$ になった。
観察 7.3 ただし、ただではない。三本目の線が要る。代価は消えたのではなく、形を変えた。消去から場所へ移った。そして場所は、いつか片づけなければならない。片づける時に、はじめて消去の代価が来る。
観察 7.4 したがって代価の置き場所は、五つではなく六つ目がある。いつ払うかである。可逆計算は代価を無くしたのではなく、後ろへ延ばした。
8. デーモンの帳尻
検算 8.1:$N$ 回まわして、取り出した仕事と、記録を消す代価を並べる。
| $N$ | 取り出した仕事 | 消去の代価 | 差引 |
|---|---|---|---|
| $1$ | $2.870979\times 10^{-21}$ J | $2.870979\times 10^{-21}$ J | $\mathbf{0}$ |
| $10$ | $2.870979\times 10^{-20}$ J | $2.870979\times 10^{-20}$ J | $\mathbf{0}$ |
| $100$ | $2.870979\times 10^{-19}$ J | $2.870979\times 10^{-19}$ J | $\mathbf{0}$ |
| $1000$ | $2.870979\times 10^{-18}$ J | $2.870979\times 10^{-18}$ J | $\mathbf{0}$ |
観察 8.2 差引はどの $N$ でも厳密にゼロである。デーモンは仕事を取り出せる。ただし記憶が有限であるかぎり、いつか消さねばならない。消した瞬間に、取り出した分がそのまま返る。
観察 8.3 記憶が無限なら、デーモンは永久に仕事を取り出せる。この場合に破れているのは第二法則ではなく、有限性の仮定である。論文136 が「等式は厳密でも平均は裾が握っている」と書いたのと同じで、どの仮定が効いているかを書かないと、何が破れたのか分からない。
9. 分離子と柵
分離子:どの操作に代価を割り当てるかである。測定か、観測の物理的実装か、消去か、場所の確保か、片づけか。そして、いつ払うか。
柵:
- 論争の決着を宣言しない。ベネットの解決の後も、測定を含む第二法則の一般化は研究が続いている。
- 第二法則が破れるとも破れないとも言わない。
- 実在の計算機について何も述べない。真理値表を数えただけである。
- フィードバック制御の理論を作らない。
- 五人のうち誰が正しいとも言わない。置き場所が違ったという事実を書くだけである。
10. 点呼と結び
- 一ビットの値段は $2.870979\times 10^{-21}$ J(検算3.1):$0.017919$ eV。
- シラードの機関はちょうどその分を返す(検算4.1):差 $6.5\times 10^{-35}$ J。
- AND は $1.188722$ ビット、XOR は $1.000000$ ビットを失う(第5節)。
- 分けているのは出力の偏り(観察5.2):$0.811278$ 対 $1.000000$。
- トフォリとフレドキンは $0$ ビット(検算6.1):しかも対合である。
- 可逆な AND は $0$ ビットだが、三本目の線が要る(第7節)。
- 帳尻はどの $N$ でも厳密にゼロ(検算8.1)。
結び:「デーモンの代価」は、一つの場所ではなかった。マクスウェルは代価を置かず、シラードは測定に、ブリルアンは観測の実装に、ランダウアーは消去に、ベネットは消去だけに置いた。五人とも第二法則を守ろうとしており、違ったのはどの操作を名指したかだけである。そして数を入れると、「非可逆なゲートは一ビット払う」も正しくなかった。AND が払うのは $1.188722$ ビットであり、ちょうど一ビットを払うのは消去と XOR だけである。最後に六つ目の置き場所が現れた。可逆計算は代価を消したのではなく、場所に変えて後ろへ延ばした。延ばした先で、いつか払う。
改訂記録
第2版(2026年9月):主張・定理・検算はいずれも第1版から変更していない。英語版の参考文献で、本体系の既刊を引く行の題名が日本語のまま残っていたので、英語の題名に直した。内容に関わる変更は無く、撤回した内容も無い。
本文の区切りに使っていた横棒を、句読点に改めた(2026年10月)。主張・数・参考文献は変えていない。
参考文献
- Maxwell, J. C. (1871). Theory of Heat. London: Longmans, Green.
- Szilard, L. (1929). Uber die Entropieverminderung in einem thermodynamischen System bei Eingriffen intelligenter Wesen. Zeitschrift fur Physik, 53.
- Brillouin, L. (1951). Maxwell’s demon cannot operate: information and entropy I. Journal of Applied Physics, 22.
- Landauer, R. (1961). Irreversibility and heat generation in the computing process. IBM Journal of Research and Development, 5.
- Bennett, C. H. (1982). The thermodynamics of computation: a review. International Journal of Theoretical Physics, 21.
- Leff, H. S., Rex, A. F. (2003). Maxwell’s Demon 2. Bristol: Institute of Physics Publishing.
- 山岸勇輝 (2026). 総当たり探索の物理的資源限界 [論文4]. Zenodo. 10.5281/zenodo.21404131
- 山岸勇輝 (2026). 二つのエントロピーを混同しない [論文88]. Zenodo. 10.5281/zenodo.21747809
- 山岸勇輝 (2026). 積分因子の存在は、温度を与えない [論文126]. Zenodo. 10.5281/zenodo.22079437
- 山岸勇輝 (2026). k_BT ln2 のうち、物理は T だけである [論文131]. Zenodo. 10.5281/zenodo.22080240
- 山岸勇輝 (2026). 等式は厳密でも、平均は裾が握っている [論文136]. Zenodo. 10.5281/zenodo.22081230
- 山岸勇輝 (2026). 最小エントロピー生成は、原理ではなく柵つきの定理である [論文143]. Zenodo. 10.5281/zenodo.22082367
作成にあたって:本稿の着想と内容は、著者自身の考察に基づくものです。文章の構成整理や英訳、数式の確認には AI(大規模言語モデル)の助力を得ました。最終的な内容の解釈や誤りがあれば、それらはすべて著者の責に帰します。お気づきの点があれば、ご教示いただければ幸いです。
書誌
山岸勇輝(2026)「「デーモンの代価」は、五人が五つの場所に置いた」[論文248]. Zenodo.
DOI: 10.5281/zenodo.22160169
日付の証拠(OpenTimestamps):日本語版の .ots・英語版の .ots・SHA256SUMS
予備の置き場所(ミラー。中身は上と同じです):PDF 日本語・PDF English・SHA256SUMS
住所:https://www.yamagishiyuuki.com/yoi/248・DOI 10.5281/zenodo.22160169・CC BY 4.0・プレプリント(査読を経ていません)・ORCID 0009-0006-8587-3450
引用するとき
山岸勇輝 (2026). 「デーモンの代価」は、五人が五つの場所に置いた [論文248]. YOI: https://www.yamagishiyuuki.com/yoi/248 ・ DOI: 10.5281/zenodo.22160169
Yamagishi, Y. (2026). Whose Cost Is the Demon’s? Five People Put It in Five Places [Paper 248]. YOI: https://www.yamagishiyuuki.com/yoi/248; DOI: 10.5281/zenodo.22160169
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author = {Yamagishi, Yuuki},
title = {Whose Cost Is the Demon's? Five People Put It in Five Places},
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指紋(SHA-256)と確かめ方
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