【論文138】どこまでがハミルトニアンかは、規約である

要旨

リンドブラッド方程式は開いた系の時間発展をユニタリな項と散逸の項に分けて書く。本稿は、この分け方が一意でないこと、一意にする柵は何か、そして「デコヒーレンス」という一語が二つの別の行き先を指していることを書く。新しい数学定理も新しい物理法則も主張しない。

第一に、これが本稿の芯の一つ。分け方は一意ではない。跳躍作用素を $L\to L+cI$ とずらし、ハミルトニアンを $\Delta H=\frac{i}{2}(cL^{\dagger}-\bar cL)$ だけ動かすと、生成子の差は厳密にゼロ行列になる(本稿で記号計算により確認)。同じ時間発展が、違うハミルトニアンで書ける(第2節)。

第二に、一意にする柵がある。$\mathrm{tr}(L)=0$ を課せば $\mathrm{tr}(L’)=2c$ となって $c=0$ が強制される。跳躍作用素を無跡に取り、$H$ の定数項を捨てれば分解は一意になる。一意性は柵の内側にしかない(論文127・133)(第3節)。

第三に、これが本稿の芯のもう一つ。完全正値性は「触っていない相手」についての要求である。転置写像は正値である。本稿では $2$ 万個の無作為な量子ビット状態で最小固有値が $3.7\times10^{-5}$ 以上であることを確認した。ところがベル状態の片方だけを転置すると固有値に $-0.5$ が現れる。系だけを見れば何も壊れないのに、傍観者と絡んでいると壊れる。リンドブラッド形が今の形をしている理由は、そこにある(第4節)。

第四に、$T_2\le2T_1$ が強制される。$1/T_2=1/(2T_1)+1/T_\varphi$ であり、等号は純位相緩和が無いときに限る。「減衰」という一語が、エネルギー緩和と位相のランダム化という二つの速さを指している(第5節)。

第五に、「デコヒーレンスは純度を壊す」は一般には正しくない。等重ね合わせから出発すると、振幅減衰では純度が $t=\ln2$ で $0.875$ まで下がったあと $1$ に戻る。絶対零度の固定点が純粋状態(基底状態)だからである。純位相緩和では単調に $0.5$ へ落ちる。行き先を決めているのは、散逸的であることではなく写像の固定点である(第6節)。

射程(何を示さないか)

本稿の射程:新しい数学定理も新しい物理法則も主張しない。リンドブラッド(1976)、ゴリニ=コサコフスキ=スダルシャン(1976)、スタインスプリングの拡張定理、ペレス=ホロデツキの判定条件、$T_1$ と $T_2$ の関係はいずれも標準的である。本稿が加えるのは、ゲージ自由度を明示して生成子の差がゼロであることを示したこと、一意にする柵を書いたこと、完全正値性を傍観者への要求として実演したこと、二つのデコヒーレンスの行き先を分けたことだけである。

1. 記法と位置づけ

密度行列 $\rho$ の時間発展を
$$ \dot\rho=-i[H,\rho]+\sum_k\Bigl(L_k\rho L_k^{\dagger}-\tfrac12\{L_k^{\dagger}L_k,\rho\}\Bigr) \tag{1} $$
と書く($\hbar=1$)。第一項をユニタリ項、第二項を散逸項と呼ぶ。

位置づけ:既存の定理を並べ、その射程を書く。新しい定理は主張しない。論文118 は$dt$ と $dS$ が別の論理型であると述べた。(1) はその二つを一本の式に並べたものに見える。本稿は、その並びがどこまで一意かを調べる。

2. 分け方は、一意ではない

検算 2.1(ゲージ自由度):一つの跳躍作用素 $L$ について、
$$ L\;\longrightarrow\;L+cI,\qquad H\;\longrightarrow\;H+\frac{i}{2}\bigl(cL^{\dagger}-\bar cL\bigr) $$
と同時に動かす。本稿では $L=\sqrt{\gamma}\,\sigma_-$、$H=0$ の場合について、$\Delta H$ がエルミートであることと、二つの生成子の差が厳密にゼロ行列であることを記号計算で確認した。(証明終)

観察 2.2 (何が言えるか) 同じ時間発展が、違うハミルトニアンと違う跳躍作用素の組で書ける。ゆえに「この系のハミルトニアンはこれである」という言明は、そのままでは意味を持たない。どの分解を採ったかを言わねばならない。

観察 2.3 (なぜこうなるのか) 跳躍作用素に恒等作用素を足すと、散逸項の中に交換子 $\frac12[\bar cL-cL^{\dagger},\rho]$ が生まれる。交換子はユニタリ項と同じ形をしている。だから片方から他方へ移せる。一語「ハミルトニアン」が、こちらの選択に依存する量を指している(論文95)。

3. 一意にする柵

観察 3.1 本稿の計算では $\mathrm{tr}(L)=0$、$\mathrm{tr}(L+cI)=2c$ である。したがって跳躍作用素を無跡に取れば $c=0$ が強制される。

観察 3.2 (柵の形) 

課すもの 分解は
何も課さない 一意でない($c$ の自由度)
跳躍作用素が無跡 一意($H$ の定数項を除く)
さらに $\mathrm{tr}(H)=0$ 完全に一意

論文127 と論文133 と同じ形である。一意性は柵の内側にしかなく、柵を数えずに受け取ってはならない。ここでの柵は「無跡であること」である。

観察 3.3 (実務上の意味) 実験で測れるのは生成子であって、その分解ではない。「ラムシフトの大きさ」のような量は、無跡の規約を採って初めて数になる。

4. 完全正値性は、傍観者についての要求である

確立された事実 4.1:写像が正値であるとは、密度行列を密度行列へ移すことである。完全正値であるとは、任意の大きさの傍観者と合わせた写像(自分の側は恒等写像)もなお正値であることである。

検算 4.2(転置は正値である):一量子ビットの転置写像について、本稿では$2$ 万個の無作為な状態で転置後の最小固有値が正(最小 $3.7\times10^{-5}$)であることを確認した。系だけを見ているかぎり、何も壊れない。

検算 4.3(だが完全正値ではない):ベル状態の片方だけを転置すると、本稿の計算では固有値が
$$ \{-0.5,\;0.5,\;0.5,\;0.5\} $$
となり、負の固有値が現れる。(証明終)

観察 4.4 (これが要点である) 完全正値性は、こちらが触っていない相手についての要求である。系の中だけを見て確かめることはできない。リンドブラッド形が (1) の形をしているのは、この要求の帰結である(スタインスプリングの拡張定理)。

そしてこれは体系の「別根」の一例である。「正値」と「完全正値」は同じ語の族に見えて、片方が他方を含意しない。分離子は「傍観者が居るかどうか」であり、転置写像がその分離子を実演している。

5. $T_2\le2T_1$

観察 5.1 振幅減衰の速さを $\Gamma_1$、純位相緩和の速さを $\Gamma_\varphi$ とすると、占有数は $\Gamma_1$ で、コヒーレンスは $\Gamma_1/2+\Gamma_\varphi$ で減衰する。すなわち
$$ \frac{1}{T_2}=\frac{1}{2T_1}+\frac{1}{T_\varphi},\qquad\text{ゆえに}\qquad T_2\le2T_1 . $$

検算 5.2

$T_1$ $T_\varphi$ $T_2$
1.0 $\infty$ 2.0000(上限に一致)
1.0 10.0 1.6667
1.0 1.0 0.6667
1.0 0.1 0.0952

(証明終)

観察 5.3 (一語、二つの速さ) 「減衰」はエネルギー緩和と位相のランダム化という別のものを指している。観測されるのは両者の合成だけであり、$T_2$ だけからは内訳が読めない。$T_2=2T_1$ に一致していれば純位相緩和が無いと分かる。上限に触れていることが情報になる。

6. 二つのデコヒーレンス、二つの行き先

検算 6.1:等重ね合わせから出発したときの純度 $\mathrm{tr}(\rho^2)$。

$t$ 振幅減衰 純位相緩和
0.0 1.000000 1.000000
0.5 0.880674 0.683940
1.0 0.883728 0.567668
2.0 0.941490 0.509158
10.0 0.999977 0.500000

振幅減衰では純度が $t=0.693$ で $0.875$ まで下がり、そのあと $1$ に戻る。純位相緩和では単調に $0.5$ へ落ちる。(証明終)

観察 6.2 (言い方の訂正) 「デコヒーレンスは純度を壊す」は一般には正しくない。絶対零度の振幅減衰は基底状態という純粋状態を固定点に持つから、純度は戻る。

観察 6.3 (何が行き先を決めているか) 散逸的であること自体は、行き先を決めない。決めているのは写像の固定点である。同じ「開いた系」という枠の中に、純粋に終わるものと混合に終わるものがある。

観察 6.4 (論文135 との対比) 論文135 ではシンプレクティック写像の行列式がちょうど $1$であり、体積が厳密に保たれた。ここでは保たれない。そしてそれは積分法の欠陥ではなく、記述している物理そのものである。同じ「保たれない」でも、数値誤差と物理的散逸は別根である。

7. 結論

  1. 分け方は一意でない(検算2.1)。$L\to L+cI$ と $H\to H+\frac{i}{2}(cL^{\dagger}-\bar cL)$ で生成子の差は厳密にゼロ行列。「この系のハミルトニアン」は、分解を言わないと意味を持たない。
  2. 一意にする柵は「無跡」である(観察3.1)。$\mathrm{tr}(L)=0$ を課せば $c=0$ が強制される。一意性は柵の内側にしかない(論文127・133)。
  3. 完全正値性は傍観者についての要求である(検算4.2・4.3)。転置は正値($2$ 万状態で最小固有値 $3.7\times10^{-5}$)だが、ベル状態の片方を転置すると $-0.5$ が現れる。系の中だけを見て確かめられない。
  4. $T_2\le2T_1$ が強制される(検算5.2)。「減衰」は二つの速さを指しており、上限に触れていることが情報になる。
  5. 「デコヒーレンスは純度を壊す」は一般には正しくない(検算6.1)。振幅減衰は $0.875$ まで下がって $1$ に戻り、純位相緩和は単調に $0.5$ へ落ちる。決めているのは固定点である。
  6. 同じ「保たれない」でも別根である(観察6.4)。論文135 の数値誤差と、ここでの物理的散逸は違う。

結び:開いた系の式を書くとき、ユニタリと散逸の境目はこちらが引いている。そして式の形そのものは、こちらが触っていない相手を壊さないという要求から来ている。見ていないところへの配慮が、見ているところの式の形を決めている。

参考文献

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  21. 山岸勇輝 (2026). 体積か、エネルギーか、両方は取れない [論文135]. Zenodo. 10.5281/zenodo.22081063
  22. 山岸勇輝 (2026). KL は距離ではない。だが、その二階微分は計量である [論文137]. Zenodo. 10.5281/zenodo.22081369

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書誌

山岸勇輝(2026)「どこまでがハミルトニアンかは、規約である」[論文138]. Zenodo.
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山岸勇輝 (2026). どこまでがハミルトニアンかは、規約である [論文138]. YOI: https://www.yamagishiyuuki.com/yoi/138 ・ DOI: 10.5281/zenodo.22081512

Yamagishi, Y. (2026). Which Part Is the Hamiltonian Is a Convention [Paper 138]. YOI: https://www.yamagishiyuuki.com/yoi/138; DOI: 10.5281/zenodo.22081512

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