要旨
記法は規約であり、定理を一つも動かさない。だが何を思いつくかは動かす。本稿はライプニッツの $dy/dx$ について、その約束が守られる場所と破られる場所を同じ計算で並べる。新しい数学定理は主張しない。いずれも標準的な内容である。
第一に、記法は答を動かさない。ニュートンの点で書こうとライプニッツの $d$ で書こうと、$f(x)=\sin(x^2)e^{-x}$ の $x=0.7$ での微分は同じ $0.37970904324369351073$ である(第2節)。
第二に、これが本稿の芯である。$dy/dx$ は分数に見え、一変数の連鎖律では実際に約分のように振る舞う。ところが三つの変数が一つの関係で結ばれると、約分の答は $\mathbf{-1}$ である。理想気体でも、陰関数曲面 $x^3+y^3+z^3+xyz=10$ の三点でも、すべて $-1.0$(第3節)。
第三に、二階では分数の読みが破綻する。$x=t^3$、$y=t^2$ で、真の $d^2y/dx^2$ は $t=2$ で $-0.013888888888889$、分数として読むと $+0.16666666666667$、値どころか符号が違う(第4節)。
第四に、同じ記法が一方の約束は守る。積の法則は本当に二項定理であり($n=6$ まで一致)、項数は $n+1$、重みの総和は $2^n$。一方連鎖律は守らない。項数は分割数、重みの総和はベル数であり、$n=10$ で $1024$ 対 $\mathbf{115975}$(第5節)。
第五に、同じ記号が二つの役を演じる。$z=x^2+y^2$、$y=3x$ で、$y$ を止めた微分と $y$ を追わせた微分は十倍違う。添字は飾りではない(第6節)。
射程(何を示さないか)
本稿の射程:新しい数学定理は主張しない。三重積関係、$d^2y/dx^2$ が分数でないこと、ライプニッツの積の法則、ファ・ディ・ブルーノの公式とベル数、偏微分の添字は、いずれも標準的である。また歴史的な優先権論争については判定しない。扱うのは記法の振る舞いだけである。加えたのは同じ一つの記法が五つの場所でどう振る舞うかを、同じ計算で一枚に並べたこと、とくに積の法則の重み $2^n$ と連鎖律の重みベル数を同じ表に置いたことである。
1. 記法と位置づけ
本稿の微分はすべて数値的に計算した。規約とは、選び直しても事実が動かない取り決めをいう(論文95)。
位置づけ:論文95 は規約と事実を分け、「規約だから何でもよい」ではないと書いた。本稿はその一例を、記法という最も薄い規約について書く。薄いのに、間違いの種類を決めているのである。
2. 記法は答を動かさない
検算 2.1:$f(x)=\sin(x^2)e^{-x}$ の $x=0.7$ での微分。
| 数値的に計算 | $0.37970904324369351073$ |
|---|---|
| 閉じた式から | $0.37970904324369351073$ |
| 差 | $4.93\times10^{-32}$ |
(証明終)
観察 2.2 ニュートンなら $\dot f$、ライプニッツなら $df/dx$ と書く。数は同じである。記法は規約であり、定理を一つも動かさない。以下はすべて、この前提の上での話である。
3. 芯:約分すると $-1$ が出る
観察 3.1 $dy/dx$ は分数に見える。一変数の連鎖律 $\frac{dy}{dt}=\frac{dy}{dx}\frac{dx}{dt}$ では、実際に約分のように振る舞う。この成功が、次の場面へ持ち越される。
検算 3.2:理想気体 $PV=nRT$($nR=1$)で、三つの偏微分をそれぞれ第三の変数を止めて計算する。
| $T$ を止めた $\partial P/\partial V$ | $-0.75$ |
|---|---|
| $P$ を止めた $\partial V/\partial T$ | $0.6666666666666667$ |
| $V$ を止めた $\partial T/\partial P$ | $2.0$ |
| 三つの積 | $\mathbf{-1.0}$ |
検算 3.3:理想気体の癖ではない。陰関数曲面 $F=x^3+y^3+z^3+xyz-10=0$ で繰り返す。
| $x$ | $y$ | $z$ | 三重積 |
|---|---|---|---|
| $1.0$ | $1.0$ | $1.833751$ | $\mathbf{-1.0}$ |
| $1.5$ | $0.5$ | $1.732544$ | $\mathbf{-1.0}$ |
| $0.7$ | $1.3$ | $1.7990588$ | $\mathbf{-1.0}$ |
(証明終)
観察 3.4 約分の答は毎回 $-1$ である。記法が約分を誘い、約分は符号を落とす。
観察 3.5 ニュートンの点は、これを誘えない。分母を持たないからである。二つの記法は同じ定理を書くが、犯しうる間違いの種類が違う。規約が選べるのは真偽ではなく、滑りやすさである。
4. 二階では、分数の読みが破綻する
検算 4.1:$x=t^3$、$y=t^2$ とし、$d^2y/dx^2$ を「二階微分の比」として読んだ場合と比べる。
| $t$ | 真の $d^2y/dx^2$ | 比として読んだ値 |
|---|---|---|
| $1.0$ | $-0.22222222222222$ | $+0.33333333333333$ |
| $2.0$ | $\mathbf{-0.013888888888889}$ | $\mathbf{+0.16666666666667}$ |
| $3.0$ | $-0.0027434842249657$ | $+0.11111111111111$ |
真の値は $-2/(9t^4)$、比として読むと $+1/(3t)$ である。(証明終)
観察 4.2 値が違うだけではない。符号が違う。$d^2y/dx^2$ は一つの記号であって、二つのものの分数ではない。一階で当たったことが、二階で当たる保証を一つも与えていない。
5. 一方の約束は守り、他方は破る
検算 5.1:積の法則。$u=e^{2x}$、$v=\sin3x$、$x=0.4$ で、$n$ 階微分を直接計算した値と $\sum_k\binom{n}{k}u^{(k)}v^{(n-k)}$ を比べる。
| $n$ | 直接 | 二項和 |
|---|---|---|
| $1$ | $6.567908305582929$ | $6.567908305582929$ |
| $2$ | $-0.6941515037403181$ | $-0.6941515037403181$ |
| $4$ | $-343.6136864015332$ | $-343.6136864015332$ |
| $6$ | $3553.448468147446$ | $3553.448468147446$ |
一致する。(証明終)
検算 5.2:連鎖律。$g=\sin$、$h=e^x-1$、$x=0.3$ で $n=4$ のファ・ディ・ブルーノの公式を当てる。
| $d^4 g(h(x))$ を直接 | $-15.82942435520884$ |
|---|---|
| ファ・ディ・ブルーノ(まとめて4項) | $-15.82942435520884$ |
| 差 | $0$ |
使った重複度は $1$、$4$ と $3$、$6$、$1$ であり、和は $15=B_4$ である。(証明終)
検算 5.3:二つの伸び方を並べる。
| $n$ | 積:項数 | 積:重みの和 | 連鎖:項数 | 連鎖:重みの和 |
|---|---|---|---|---|
| $2$ | $3$ | $4$ | $2$ | $2$ |
| $4$ | $5$ | $16$ | $5$ | $15$ |
| $6$ | $7$ | $64$ | $11$ | $203$ |
| $10$ | $11$ | $\mathbf{1024}$ | $42$ | $\mathbf{115975}$ |
(証明終)
観察 5.4 積の法則では、記法の約束がそのまま守られている。係数は二項係数そのもので、重みの総和は $2^n$ である。連鎖律では守られない。項数は分割数、重みの総和はベル数であり、$n=10$ で百倍以上の隔たりになる。
観察 5.5 一つの記法が、隣り合う二つの規則に対して違う態度を取る。だから「$d$ は分数のように使ってよい」は、規則ごとに確かめる以外にない。記法から出てくるのは予想であって、証明ではない。
6. 同じ記号が、二つの役を演じる
検算 6.1:$z=x^2+y^2$、$y=3x$ とする。どちらも「$z$ を $x$ で微分する」と言われる。
| $x$ | $y$ を止めた微分 | $y$ を追わせた微分 | 比 |
|---|---|---|---|
| $1.0$ | $2.0$ | $20.0$ | $\mathbf{10.0}$ |
| $2.0$ | $4.0$ | $40.0$ | $10.0$ |
| $5.0$ | $10.0$ | $100.0$ | $10.0$ |
(証明終)
観察 6.2 裸の記法が同じに書く二つのものが、十倍違う。熱力学が止める変数を添字で書くのは、このためである。添字は飾りではなく、それが無ければ式は数を指していない(論文16 が「=」について書いたのと同じ形)。
7. 記法が正当化されるまで
観察 7.1 $dx$ を「無限小」として使うことは、長く当たるが根拠のない操作であった。それが正当化されたのはカルタンの微分形式においてであり、そこで $dx$ は $1$ 形式という定義された対象になり、「約分」は写像による引き戻しという定義された操作になった(論文92)。
観察 7.2 つまりライプニッツの記法は、二百年後に意味を与えられた。その間ずっと当たり続けたが、当たることは意味を持つことではない。当たり方の限界が第3節から第5節である。
8. 点呼
観察 8.1
| 場所 | 見かけ | 実際 | 動かすと動くもの |
|---|---|---|---|
| 一階の連鎖律 | 約分に見える | 当たる | なし |
| 三変数の関係 | 約分すると $+1$ | $-1$ | 変数の個数 |
| 二階の $d^2y/dx^2$ | 分数に見える | 符号すら違う | 微分の階数 |
| 積の法則 | 二項定理に見える | 二項定理である | なし |
| 連鎖律の高階 | 単純に見える | ベル数 | 微分の階数 |
| 偏微分 | 一つの記号 | 二つの意味 | 何を止めるか |
観察 8.2 記法は真偽を動かさない。動かすのは、どの誤りが自然に見えるかである。そしてそれは、次に何を思いつくかを動かす。
9. 結論
- 記法は答を動かさない(検算2.1)。
- 約分は $-1$ を出す(検算3.2・3.3):理想気体でも陰関数曲面でも $-1.0$。
- 二階では符号すら違う(検算4.1):$-0.0138889$ 対 $+0.1666667$。
- 積は約束を守り、連鎖は破る(検算5.1〜5.3):$2^{10}=1024$ 対 $B_{10}=115975$。
- 添字は飾りではない(検算6.1):十倍。
結び:規約は自由に選べる。選べないのは、その選択がどの間違いを誘うかである。ライプニッツの $d$ は三百年にわたって正しい予想を与え続け、同じ三百年にわたって同じ場所で人を滑らせてきた。滑る場所は、記法を選んだ時点で決まっていたのである。
参考文献
- Newton, I. (1687). Philosophiae Naturalis Principia Mathematica. London: Royal Society.
- Leibniz, G. W. (1684). Nova methodus pro maximis et minimis. Acta Eruditorum.
- Faà di Bruno, F. (1855). Sullo sviluppo delle funzioni. Annali di Scienze Matematiche e Fisiche, 6.
- Bell, E. T. (1934). Exponential polynomials. Annals of Mathematics, 35(2).
- Cartan, É. (1899). Sur certaines expressions différentielles et le problème de Pfaff. Annales scientifiques de l’École Normale Supérieure, 16.
- Robinson, A. (1966). Non-standard Analysis. Amsterdam: North-Holland.
- 山岸勇輝 (2026). 等号にも別根がある [論文16] 第3版. Zenodo. 10.5281/zenodo.21600471
- 山岸勇輝 (2026). 共通のアルファベット [論文92]. Zenodo. 10.5281/zenodo.21758486
- 山岸勇輝 (2026). 規約と事実を分ける [論文95]. Zenodo. 10.5281/zenodo.21758621
- 山岸勇輝 (2026). 関係としての時間と空間 [論文97]. Zenodo. 10.5281/zenodo.21758697
- 山岸勇輝 (2026). 伊藤の $2$ は、次元ではない [論文132]. Zenodo. 10.5281/zenodo.22080358
- 山岸勇輝 (2026). $\varepsilon^2=0$ は環の定義であり、$(dW)^2=dt$ は道の事実である [論文148]. Zenodo. 10.5281/zenodo.22083237
- 山岸勇輝 (2026). 定義は $d$ を $p$ で割り、定理は $p$ を判別式で割る [論文166]. Zenodo. 10.5281/zenodo.22093052
- 山岸勇輝 (2026). ルベーグが買ったのは、クラスの大きさではなく、極限で閉じることである [論文168]. Zenodo. 10.5281/zenodo.22093320
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書誌
山岸勇輝(2026)「約分すると、+1 ではなく -1 が出る」[論文170]. Zenodo.
DOI: 10.5281/zenodo.22093731
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引用するとき
山岸勇輝 (2026). 約分すると、+1 ではなく -1 が出る [論文170]. YOI: https://www.yamagishiyuuki.com/yoi/170 ・ DOI: 10.5281/zenodo.22093731
Yamagishi, Y. (2026). Cancelling the Differentials Gives -1, Not +1 [Paper 170]. YOI: https://www.yamagishiyuuki.com/yoi/170; DOI: 10.5281/zenodo.22093731
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