要旨
掛け算に何を期待してよいかは、どこで掛けているかで変わる。本稿はどの法則が生き残るかを測り、次元を倍にするたびに一つずつ落ちていくことを示す。新しい数学定理も新しい法則も主張しない。
第一に、「同じ数を何回も足す」は定義ではない。$3\times2.5$ にその読み方は無い。それは一つの場合にだけ通じる絵である(第2節)。
第二に、外積は結合しない。$(a\times b)\times c$ と $a\times(b\times c)$ のずれは最大 $\mathbf{10.7208}$ であった。ただしヤコビ和は $3.553\times10^{-15}$であり、別の法則を守っている(第4節)。
第三に、これが本稿の芯である。次元 $1,2,4,8$ と倍にするたびに、ちょうど一つ法則が落ちる。順序、可換(ずれ $19.1$)、結合(ずれ $72.4$)(第5節)。
第四に、十六で割り算そのものが壊れる。$(e_1+e_{10})(e_4-e_{15})=\mathbf{0}$ であり、両方の大きさは $\sqrt2$ である。この形の零因子は336 組あり、八元数には一組も無い(第6節)。
第五に、確率の積は掛け算の性質ではない。同じコインを二度見れば $P(A)P(B)=0.25$ に対し $P(A\cap B)=0.5$ である。積の規則は世界についての仮説である(第7節)。
射程(何を示さないか)
新しい数学定理も新しい法則も主張しない。ケイリー=ディクソン構成、フロベニウスの定理、フルヴィッツの定理、外積の非結合性とヤコビ恒等式、十六元数の零因子は、いずれも標準的である。網羅を主張しない。フルヴィッツの定理を証明しない。「四つで止まる」ことは引用する定理であり、本稿は各段で何が落ちるかを測るだけである。代数の教科書を書かない。分解型の代数も、標数の違う体も扱わない。零因子の分類をしない。挙げるのは$e_i\pm e_j$ の形のものだけである。既刊との関係:論文16(等号に六)・227(不等号に二)・228(「+」に八)・229(「$\div$」に五)・230(「$-$」に七)に続く記号の分類の六本目であり、四則が揃う。論文181 は「掛け算は二つ目を決めない」を示した。あちらの分離子は余積 $\Delta$であり、本稿の分離子(どの法則を諦めたか)とは別である。重ならない。論文220 は「独立は四つある」を示した。第7節はその掛け算側の現れである。加えたのは行列と外積で法則のずれを実測したこと、外積が結合しないのにヤコビを守ることを $10^{-15}$ で確かめたこと、ケイリー=ディクソンの各段で可換性と結合性のずれを測ったこと、十六元数の零因子を推測ではなく総当たりで見つけたこと、八元数に同じ形が無いことを確かめたことである。
1. 記法と位置づけ
「$\times$」に我々が期待するのは、およそ四つである。交換法則・結合法則・答が同じ型であること・足し算に分配すること。本稿が測るのは、それぞれの掛け算で、どれが生き残るかである。
位置づけ:記号の分類の六本目であり、これで四則が揃う。論文181 の分離子は余積であって、本稿とは別の切り口である。
2. 「同じ数を何回も足す」は、定義ではない
観察 2.1
| 式 | 繰り返し足すと読めるか | 積の値 |
|---|---|---|
| $3\times4$ | $3+3+3+3=12$ | $12$ |
| $3\times2.5$ | 読み方が無い | $7.5$ |
| $3\times(-2)$ | 読み方が無い | $-6$ |
| $3\times0.5$ | 読み方が無い | $1.5$ |
観察 2.2 「$a$ を $b$ 回足す」には、$b$ が個数であることが要る。これは掛け算の定義ではなく、一つの場合にだけ通じる絵である。論文229 で割り算にも二つの絵があったのと同じ事情である。
3. 積は、始めた集合を出ていくことがある
観察 3.1
| 積 | 入れるもの | 出てくるもの |
|---|---|---|
| $2$ m $\times$ $3$ m | 二つの長さ | $6$ m$^2$、面積であって長さではない |
| 内積 | 二つのベクトル | 数 |
| 外積 | 二つのベクトル | ベクトル(三次元でだけ) |
| 外微分形式の積 | 二つの $1$-形式 | $2$-形式 |
| テンソル積 | 次元 $10$ と $10$ | 次元 $100$ |
観察 3.2 五つのうち四つで、答は同じ型ではない。「掛ける」と言うとき、我々は何が出てくるかを言っていない。
4. どの法則が残るか:行列と外積
検算 4.1:$3\times3$ の乱数行列と三次元の乱数ベクトルで、法則のずれを測る。
| 積 | 交換法則のずれ | 結合法則のずれ |
|---|---|---|
| 行列 | $\mathbf{10.7622}$ | $1.776\times10^{-15}$ |
| 外積 | $a\times b+b\times a=\mathbf{0}$(反対称) | $\mathbf{10.7208}$ |
外積についてヤコビ和 $a\times(b\times c)+b\times(c\times a)+c\times(a\times b)$ を測ると $\mathbf{3.553\times10^{-15}}$ であった。
観察 4.2 外積は結合しない。だが無法則なのではない。結合法則の代わりにヤコビ恒等式を守っている。「法則が壊れた」のではなく、別の法則に取り替わったのである。
5. 芯:倍にするたびに、一つ落ちる
検算 5.1:ケイリー=ディクソン構成で次元を $1,2,4,8,16$ と倍にし、各段で乱数を $4000$ 組ずつ測る。
| 代数 | 次元 | 交換法則 | 結合法則 |
|---|---|---|---|
| 実数 | $1$ | 成り立つ | 成り立つ |
| 複素数 | $2$ | 成り立つ | 成り立つ |
| 四元数 | $4$ | 破れる(ずれ $19.1$) | 成り立つ |
| 八元数 | $8$ | 破れる(ずれ $24.3$) | 破れる(ずれ $72.4$) |
| 十六元数 | $16$ | 破れる(ずれ $36.7$) | 破れる(ずれ $156$) |
構成の確認:四元数で $ij=k$、$ji=-k$、$i^2=-1$。八元数で $(e_1e_2)e_4$ と $e_1(e_2e_4)$ は符号が逆であった。
観察 5.2 一段ごとに、ちょうど一つ落ちる。
| 代数 | 次元 | その倍加が支払ったもの |
|---|---|---|
| 実数 | $1$ | 、 |
| 複素数 | $2$ | 順序(大小を比べられなくなる) |
| 四元数 | $4$ | 可換性 |
| 八元数 | $8$ | 結合性 |
| 十六元数 | $16$ | 零因子が無いこと(第6節) |
そして $1,2,4,8$ で止まる。これはフルヴィッツの定理であり、本稿は証明せず引用する。
6. 十六で、割り算そのものが壊れる
検算 6.1(推測から総当たりへ):初めに文献から思い出した組を当てたが、$|xy|=2.828$ で零にならなかった。基底の並べ方が違えば当たらない。そこで $e_i\pm e_j$ の形の組を総当たりした。
| 測ったもの | 値 |
|---|---|
| 零になる組の数 | $\mathbf{336}$ |
| 最初の一つ | $(e_1+e_{10})(e_4-e_{15})$ |
| $|x|$、$|y|$ | $1.4142135624$、$1.4142135624$ |
| $|xy|$ | $\mathbf{0}$ |
| $|yx|$ | $\mathbf{0}$ |
| 八元数で同じ形の零因子 | $\mathbf{0}$ 組 |
観察 6.2 どちらの因子も零ではないのに、積が零である。$x$ で割るという操作が、意味を持てなくなる。論文229 で数えた「割れない理由」の三つ目(逆元が無い)が、ここでは掛け算の側から生じている。そして破れは十六でだけ起き、八では一組も無い。
7. 確率の積は、掛け算の性質ではない
検算 7.1:
| 場合 | $P(A)P(B)$ | $P(A\cap B)$ | 一致するか |
|---|---|---|---|
| 独立な二枚のコイン | $0.25$ | $0.25$ | はい |
| 同じコインを二度見る | $0.25$ | $\mathbf{0.5}$ | いいえ |
| $A$ とその余事象 | $0.25$ | $\mathbf{0}$ | いいえ |
観察 7.2 積の規則は掛け算の性質ではない。それは世界についての仮説であり、たいていの場合は偽である。論文220 が「独立は四つある」と数えたことの、掛け算側の現れである。
8. 分離子と柵
観察 8.1 (分離子) 「$\times$」を分けているのは、どの法則を諦めたかである。
| 諦めたもの | 例 |
|---|---|
| 何も | 数の積 |
| 順序 | 複素数 |
| 可換性 | 四元数・行列 |
| 結合性 | 八元数・外積(ヤコビに取り替わる) |
| 答が同じ型であること | 面積・内積・外微分形式・テンソル積 |
| 零因子が無いこと | 十六元数 |
| 分配が無条件であること | 確率の積(独立を要する) |
観察 8.2 (柵) 「これらは掛けられる」という言い方を囲っている柵は、どの法則を当てにしているかを決めていることである。柵の外では、この文は偽ですらなく、空である。230・229・228 と同じ形である。
観察 8.3 四則が揃った。分離子はそれぞれ違う。「+」は戻す座標があるか(228)、「$-$」は何が戻ってくるはずか(230)、「$\div$」は何が戻すのを邪魔しているか(229)、そして「$\times$」はどの法則を諦めたかである。四つとも、記号を見ても分からない。
9. 点呼と結び
本稿が測ったことを並べる。
- 繰り返し足すのは定義ではない(観察2.1):$3\times2.5$ に読み方が無い。
- 五つのうち四つで型が変わる(観察3.1)。
- 外積は結合せず、ヤコビを守る(検算4.1):$10.7208$ と $3.553\times10^{-15}$。
- 一段ごとに一つ落ちる(検算5.1):順序・可換・結合。
- 零因子は推測では当たらなかった(検算6.1):総当たりで $336$ 組。
- 十六でだけ割り算が壊れる(検算6.1):八元数では $0$ 組。
- 確率の積は仮説である(検算7.1):$0.25$ に対し $0.5$。
結び:掛け算は、たいてい「同じ数を何回も足すこと」として教えられる。$3\times2.5$ には、その読み方が無い。そして $2$ メートル $\times$ $3$ メートルは $6$ ではなく、$6$ 平方メートルという別の種類のものである。行列では順序を変えると答が変わり、外積では括弧の位置を変えると答が変わる。ただし外積はヤコビ恒等式という別の法則を、$10^{-15}$ の精度で守っている。そして数の世界を倍にしていくと、一段ごとにちょうど一つ、法則が落ちる。複素数で順序を、四元数で可換性を、八元数で結合性を失い。十六元数では、どちらも零でない二つを掛けて零になる。$(e_1+e_{10})(e_4-e_{15})=0$、両方の大きさは $\sqrt2$、そのような組が $336$ ある。八元数には、一組も無い。つまり「掛ける」という一つの言葉のもとで、我々は何を当てにしてよいかを、場所ごとに交渉している。だから掛けられるかどうかを訊く前に、どの法則を当てにしているのかを訊かねばならない。そして一つ多く手に入れるたびに、一つ手放している。
参考文献
- Hamilton, W. R. (1844). On quaternions. Proceedings of the Royal Irish Academy, 3, 1–16.
- Cayley, A. (1845). On Jacobi’s elliptic functions, in reply to the Rev. B. Bronwin; and on quaternions. Philosophical Magazine, 26, 208–211.
- Frobenius, G. (1878). Über lineare Substitutionen und bilineare Formen. Journal für die reine und angewandte Mathematik, 84, 1–63.
- Hurwitz, A. (1898). Über die Composition der quadratischen Formen von beliebig vielen Variabeln. Nachrichten von der Gesellschaft der Wissenschaften zu Göttingen, 309–316.
- Bott, R., Milnor, J. (1958). On the parallelizability of the spheres. Bulletin of the American Mathematical Society, 64(3), 87–89.
- Baez, J. C. (2002). The octonions. Bulletin of the American Mathematical Society, 39(2), 145–205.
- Grassmann, H. (1844). Die lineale Ausdehnungslehre. Leipzig: Wigand.
- 山岸勇輝 (2026). 等号にも別根がある [論文16]. Zenodo. 10.5281/zenodo.21600471
- 山岸勇輝 (2026). 掛け算は「二つ目」を決めない [論文181]. Zenodo. 10.5281/zenodo.22104155
- 山岸勇輝 (2026). 「独立」は四つあり、たがいに何も言わない [論文220]. Zenodo. 10.5281/zenodo.22119838
- 山岸勇輝 (2026). 「+」は八つあり、そのうち七つは座標を変えれば本当の足し算になる [論文228]. Zenodo. 10.5281/zenodo.22126254
- 山岸勇輝 (2026). 「÷」は五つあり、割れない理由がそれぞれ違う [論文229]. Zenodo. 10.5281/zenodo.22126445
- 山岸勇輝 (2026). 「$-$」は七つあり、そのうち一つは足し算を戻さない [論文230]. Zenodo. 10.5281/zenodo.22126779
作成にあたって:本稿の着想と内容は、著者自身の考察に基づくものです。文章の構成整理や英訳、数式の確認には AI(大規模言語モデル)の助力を得ました。最終的な内容の解釈や誤りがあれば、それらはすべて著者の責に帰します。お気づきの点があれば、ご教示いただければ幸いです。
書誌
山岸勇輝(2026)「「×」は、倍にするたびに一つ法則を失う」[論文231]. Zenodo.
DOI: 10.5281/zenodo.22126935
日付の証拠(OpenTimestamps):日本語版の .ots・英語版の .ots・SHA256SUMS
予備の置き場所(ミラー。中身は上と同じです):PDF 日本語・PDF English・SHA256SUMS
住所:https://www.yamagishiyuuki.com/yoi/231・DOI 10.5281/zenodo.22126935・CC BY 4.0・プレプリント(査読を経ていません)・ORCID 0009-0006-8587-3450
引用するとき
山岸勇輝 (2026). 「×」は、倍にするたびに一つ法則を失う [論文231]. YOI: https://www.yamagishiyuuki.com/yoi/231 ・ DOI: 10.5281/zenodo.22126935
Yamagishi, Y. (2026). Every Doubling Costs the Product One Law [Paper 231]. YOI: https://www.yamagishiyuuki.com/yoi/231; DOI: 10.5281/zenodo.22126935
@misc{yamagishi2026yoi231,
author = {Yamagishi, Yuuki},
title = {Every Doubling Costs the Product One Law},
year = {2026},
howpublished = {YOI: https://www.yamagishiyuuki.com/yoi/231},
doi = {10.5281/zenodo.22126935},
note = {Preprint, edition 1}
}
指紋(SHA-256)と確かめ方
870f758bbd92e811eded425625daf1aa328c2c2627d0648286fa8be2be2fed10 yamagishi_yoi231_v1_jp.pdf41d697a25689595c32b517d461a38ab21dec08a6cc1698b155fa0484e5640c6d yamagishi_yoi231_v1_en.pdfPDF と .ots を同じ場所に保存し、opentimestamps.org に .ots、続けて PDF を落とすと、記録された日時が表示されます。PDF が 1 バイトでも変わっていれば通りません。